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民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒

『民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒』(ユニコン企画発行、長崎出版発売、1200円+税)

現在の“東村山の闇”の原点である議席譲渡事件と女性市議転落死事故についてのルポルタージュ。今は絶版となっていて書店では買えないが、手元に在庫があるので、希望の方はこちらにメールしてください。書籍代+送料でお分けいたします。

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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第2章 政治家による捜査介入         第43回
警察庁官房長のつぶやき

 97年9月2日、千葉は東村山署から調布署へ異動となった。奇しくも、朝木明代が転落死を遂げてからちょうど2年目のことだった。

 千葉が東村山署副署長となってから2年半である。通常なら本部の理事官に昇進してもおかしくないが、調布署に赴任した千葉の肩書は副署長のままだった。

 聞いた範囲では、警視庁の歴史の中で、前の署で副署長を2年以上務めた者が、再び副署長として次の署に異動した例はない。これが前の東村山署長だった山田が残した千葉に対する評価が影響していたとしても、警視庁上層部の認識はたんに「上司の命令に背いた」という程度のことではなかったのではあるまいか。

 その程度ならば、副署長の時期が普通より長かったとしても、次の署でも副署長のままということはないのではないか。上層部が警戒したのは、千葉が山田と違い、相手が誰であろうと、道理の通らない命令には簡単に従うような人物ではないというところにあったのではあるまいか。

 警視庁上層部が自民党の国会質問に合わせて書類送検を遅らせたこと、さらに国会で警察庁刑事局長が「あらゆる可能性を視野に入れ、自殺・他殺の両面からの捜査を進め(ている)」と事実に反する答弁をしたこと、この答弁が亀井ないしは自民党が作成したシナリオに沿ったものであることを千葉がよく理解しており、場合によってはその事実を公表しないという保証はない。警視庁上層部は、政治家による圧力が去ったあと、今度は内部から、警視庁が政治家に屈した事実を公表されることを警戒するようになっていたのであると推測する。

 そのことを十分にうかがわせる話が調布署に異動した千葉の耳に届いていた。千葉は副署長のままだったが、気持ちを切り替えて職務を全うしようとしていた。そのころ、問題の国会の際に警察庁刑事局長として答弁した野田健は警察庁官房長となっていた。その野田があるとき、千葉についてこんなことを漏らしたというのである。

「千葉はまだめげずにいるのか」

 と。この話を聞いた千葉には、この警察庁トップの言葉を自分に対するねぎらいと受け止めることはできなかった。むしろ、副署長のまま2年半が過ぎ、また副署長として転任させるという前例のない人事からすれば、官房長の言葉は「千葉はまだ退職せずにいるのか」という意味のように感じられた。そうだとすれば、警視庁上層部が千葉を昇進させなかったことは、人事による実質的な処分だったのではないかと疑われても仕方がないのではあるまいか。

 矢野と朝木明代によるアリバイ工作を暴き、度重なる嫌がらせを受けてきた万引き被害者を励まし、また初対面の矢野からいきなり「暴行犯」として警察に突き出された18歳の少年を守るなど、事実に基づく捜査姿勢を貫いてきた警察官を処分する口実を警視庁上層部はみつけることができなかった。その代わりに、警視庁上層部は人事で処分するという方法を選んだということらしかった。

 警視庁上層部が政治家の圧力に屈しさえしなければ、そんな必要は生じなかった。むしろ、明代の転落死事件では週刊誌などによる根拠のない疑惑報道と捜査批判の中で、予想もしなかった政治家による捜査介入をはねつけ、十分な公正性と中立性、客観性を担保した捜査を遂げた千葉の功績は小さくあるまい。東京地検が「自殺の疑いが濃い」という結論を導いたのも東村山署の捜査の結果であり、本来なら千葉が人事的な処分を受けるいわれはないというべきである。

 警察庁および警視庁上層部は、自分たちの立場を守るために、事実を知る千葉を組織から排除しようとしたということではあるまいか。嘘に嘘を重ねたという点では、立場や肩書が異なるというだけで、発想の原点は矢野穂積と大差はない。

刑事局長は警視総監に

 97年9月2日に調布署に副署長として赴任した千葉は、さらに2年、副署長を務めた。その間、かつて東村山署長として政治家にへつらっていた山田正治は、98年2月27日、警視庁捜査1課長に就任した。

「捜査員1人ひとりの力を最大限に生かすための雰囲気づくりに力を注ぎたい」

 捜査1課長就任に際して山田はそうコメントしている(98年2月27日付『朝日新聞』)。かつて山田が東村山署長だったころ、政治家の顔色をうかがい、部下に理不尽な指示をしていたことを知る者からすれば、どうしても歯の浮くようなコメントに映る。

 翌99年8月26日には、95年11月に国会で警察庁刑事局長として虚偽答弁を行った野田健が警視庁のトップである警視総監(82代)に就任している。これを伝えた『朝日新聞』(99年8月26日付)は、野田がかつて警視庁に籍を置いたことがあることを紹介した上で、野田の次のようなコメントを紹介している。

「(警視庁では)現場の仕事を教わった。その恩返しをしたい」

 野田は4年前に国会で、東村山署の現場の仕事を踏みにじったことを忘れたわけではあるまい。それに対する謝罪を抜きに、警視庁に「恩返しをする」などあり得まい。それどころか、野田が警視庁のトップに就任したことで、結果として、朝木事件をめぐり政治家と警察上層部が行った国民に対する裏切り行為を完全に封印できる態勢が出来上がったともいえた。

 仮に誰かが、当時の事実を明らかにしようとしても、警視総監の命令の下、その動きはすぐにつぶされるだろう。誰も口には出さないが、そういう態勢でもあるということだった。

過去には触れなかった野田

 一方、同年9月になって、千葉に異動の辞令が出た。警察署長と同等の階級にあたる鉄道警察隊隊長というポストだった。これを知った矢野は、すぐに「スリ、痴漢担当」などと揶揄したが、東京の鉄道の玄関口を守る重要な部署であることはいうまでもなかった。

 副署長を2年務めたあと本部で理事となり、その後に署長というのが警視庁の通常の昇進基準である。ところが千葉の場合は、副署長を4年半というのも異例の長さである上、しかも理事を経ないで署長(鉄道警察隊長)になったという珍しい例だった。千葉のこの前例のない昇進の経過は、副署長として東村山署に赴任して以後、直面した数々の難しい場面で、千葉が一歩も引くことなく対応してきた結果である。千葉はそのことに何の悔いもなかった。

 それから半年後の2000年3月、千葉は大井警察署長として警視庁最後の1年を迎えた。大井警察署長となって以後、千葉は何度か警視総監の野田と顔を合わせたことがあった。しかしもちろん、野田が千葉の前で朝木事件に触れることはなかった。

(第2章 了)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第2章 政治家による捜査介入         第42回
東京地検が捜査結果を発表

 朝木直子が『東村山市民新聞』第82号で千葉に関する人事について「『留め置き』処分ですね」などと騒いでから1カ月後の97年4月14日、東京地検は朝木事件に関する記者会見を開き、「自殺の可能性が濃い」とする最終捜査結果を発表した。これで朝木明代が転落死した事件についてすべての捜査が終了したことになる。東京地検が捜査結果に関して記者会見を開くことはまれで、このこと自体が朝木事件の特異性を物語っていた。

 東京地検は、警察の捜査が終わっていたにもかかわらず書類送検が延期されたこと、その間にも「創価学会疑惑」報道が広く出回ったこと、また自民党が選挙に向けて同様のキャンペーンを積極的に行ったことなどから、事件に関して誤った認識が社会に蔓延したことを憂慮したのだろう。このため東京地検は、東京地検として朝木事件に対してどのような結論を出したかについて、マスコミの前で明らかにしておく必要があると判断したものと思われた。

 95年10月の時点で、東京地検八王子支部は、東村山署に対して「明代の万引きの事実は認める」とする見解を示している。朝木直子は『東村山市民新聞』第82号で、千葉が「(万引き)犯人と母・朝木(明代)議員とを結び付ける物証が全くないのに『現行犯と同じようなもの』などと(マスコミに広報した)」などと主張していたものだが、東京地検が発表した「自殺の可能性が濃い」とする最終結論によって、直子自身の「万引きと自殺は表裏の関係にある」とする主張とあわせ、あらためて明代の万引きの事実が確認されたということになる。

亀井に泣きついた矢野

 東京地検が捜査を終結したということは、これ以上の捜査は行われず、「自殺の可能性が濃い」とする見解が事件の最終結論ということで、よほど確かな新証拠が出てこない以上、この結論が覆されることはない。現実に、この東京地検の発表内容が、その後に覆された事実はもちろん、修正や訂正がなされた事実もない。

 矢野がこの発表内容を受け入れられるはずがなかった。東京地検の発表内容は、事実上、自殺と断定したに等しい。自殺ということは、すなわち明代の万引きの事実を裏付けることを意味する。すると今度は、矢野は万引き事件で虚偽の証言をしていたことが確定することになるのである。

 そうなると、矢野は周囲の市民から「虚偽の証言などすべきではなく、明代に罪を認めて謝罪させるべきだった。そうすれば、明代が書類送検されることも、まして自殺に追い込まれることもなかった」と非難されることは避けられない。矢野は自分の立場を守るために、明代の自殺を認めることはできなかったのである。

 そこで矢野は亀井を訪ねたという(『東村山市民新聞』97年5月21日付第84号)。亀井の配下Yによれば、亀井はすでに矢野とは距離を置こうとしていた。矢野の記載が事実とすれば、亀井はしぶしぶ矢野との面会を承知したことになる。

 そのときの模様について矢野は、「(亀井は)前年、最初に会ったときよりも、ごく『上品』な態度だったのが印象的でした」と、婉曲に亀井の変わり身を非難していた。矢野は亀井に、今回の東京地検が出した結論を見直させるよう圧力をかけてもらおうとでも考えていたのだろう。

 しかし、もちろん亀井にはもうそんな気はさらさらなかった。自民党はすでに衆院選で勝利を収め、亀井は建設大臣の地位にあった。亀井にとって、朝木事件にはもう利用価値はなかったのである。

弱みにつけ込んだ矢野

 Yがいうように、衆院選の勝利という目的を果たし、矢野との縁を切ろうとしていた亀井が、今になってなぜ矢野との面会に応じたのだろうか。その理由の1つと考えられる事実をYが話していた。

 明代が転落死してさほど時を置かない時期に、Yは矢野から亀井を紹介してくれるよう頼まれた。Yは自民党の会合などでたびたび亀井と会っており、亀井からは「Yちゃん」と呼ばれるほどの間柄だった。矢野から仲介を頼まれたYはすぐに議員会館の亀井の事務所に電話したが、そのとき亀井は不在で、取り次ぐことができなかったと、Yはいう。

 その後、矢野はYか、あるいはYにつながる人脈を頼って亀井に連絡を取ることができたようである。国会質問の話はそのときに矢野が持ちかかけたのではないだろうか。むしろそのために矢野は亀井に近づいたという可能性もあろう。

 95年9月6日の時点で、矢野は高知の反創価学会活動家に対して、「国会で朝木事件について質問することになってましてね」と話しているから、国会質問の話はトントン拍子に進んだのだろう。その時点で、東村山署の状況と事件の詳細を知るのは矢野であり、亀井は矢野の説明を聞いて、政争の具として使えると判断したのではあるまいか。

 しかし、矢野の提案に乗ったおかけで、亀井は選挙には勝ったが、警視庁の書類送検を遅らせるという違法行為に加担し、それが国会での警視庁刑事局長と国家公安委員長による虚偽答弁にもつながった。当然、矢野は亀井を中心とする自民党が警視庁と警察庁に圧力をかけ、その結果として実現した国会茶番劇の舞台裏をよく知っている。東京地検の「自殺の疑いが濃い」とする発表後ということもあり、亀井としても矢野との面会に応じるしかなかったのだろう。

 しかしもちろん、東京地検が出した結論に亀井が口を挟む気などあるはずがなかった。矢野に裏切られても困るから、矢野を不用意に刺激しないよう、亀井は適当に話を合わせただけだった。そのことを矢野も感じていたのだろう。それが前述の、矢野のいう「ごく『上品』な態度」ということだった。

 矢野に対する亀井の態度からは、亀井にとっても朝木事件はもう蒸し返されたくない過去となったことがうかがえるが、政治家の圧力に屈した側もまた同様の問題を抱えていたようである。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第2章 政治家による捜査介入         第41回
「朝木事件」というタブー

「亀井は朝木事件から手を引く」といった配下の男(以後、「Y」と呼ぶ)の言葉どおり、97年に入って東村山署および千葉に対する政治家からの圧力やそれをうかがわせるような直接的な出来事はなかった。しかし、一時的にせよ、政治圧力に屈したことの後遺症が警視庁内部に残らないことはあり得なかった。

 警視庁上層部にとって、自民党の意向に沿って書類送検を遅らせ、国会の場で「警視庁としていまだ結論は出ていない」との虚偽答弁に加担したことは、何があっても表に出してはならない国民に対する裏切り行為である。虚偽答弁を容認した警察庁および警視庁上層部だけでなく、そのことを薄々感じていた末端の警察官にとっても触れてはならないタブーとなっていた。これこそが、警視庁が政治圧力に屈したことの後遺症だった。

 警視庁上層部は「朝木事件」というタブーを、タブーと認識されている間はまだ気を抜くことはできないと考えただろう。タブーは、闇に葬られて、誰もが思い出さなくなるまで誰かが注意深く管理しなくてはならない。警察庁と警視庁上層部は、そのための方法として人事を最大限に活用することを考えたようだった。

異例の留任人事

 朝木事件の記者会見から千葉を排除した山田正治署長が、97年3月、退任して警視庁3課長に就任した。矢野が暴行事件の「犯人」と名指した少年の名前を「矢野に教えてはどうか」といってきた白川勝彦の捜査介入や、「副署長と捜査係長は創価学会員であるのか」答えろなどという白川の要求をそのまま千葉に伝えた人物でもある。

 東村山警察署という地方都市の署長から首都東京の治安を預かる警視庁本庁の3課長に異動するということは栄転とみていいのだろう。東村山署に就任してから1年半後のことだった。

 97年3月といえば、千葉は副署長として東村山署に赴任して2年になる。それまで警視庁では、地方の警察署で副署長を2年勤めると、何もなければ警視庁本部で理事官を2年から3年勤めたあと、地方の警察署の署長に昇進するというのがノンキャリアの人事の通例だったという。この通例に従えば、東村山署で副署長を2年勤めた千葉が、理事官として本庁に呼び戻されてもおかしくなかった。

 ところが、千葉に対しては本庁から何の沙汰もなく、そのまま副署長に留まることになったのだった。千葉が何か表立った不祥事を起こしたというわけでもない。むしろ、手癖の悪い市議と事件を隠蔽しようとした同僚市議の嘘を暴いて書類送検に持ち込んだ副署長に対する処遇としては、理解し難い異例の人事といってよかった。

暴露された人事情報

 とはいえ、一介の副署長の人事情報など一般市民にとって特に関心があるとは思えない。ところが、この人事情報に飛びついたのが矢野穂積と朝木直子だった。97年3月19日付『東村山市民新聞』第82号には、「東村山警察の事件関係者たち」「『留め置き処分』ですね」と題する直子の署名記事が掲載された。

 記事では、朝木明代の万引き事件に関して矢野を事情聴取した警察官について「(異動し、)退職を前提の窓際族に」と揶揄し、千葉については「2年半も東村山署に留め置きに」と嘲笑していた。千葉が東村山署に残ることについては知り得たとしても、矢野を取り調べた刑事の異動先の情報を彼らがどうして知り得たのだろうか。「留め置き処分」という聞き慣れない文言からは、警視庁上層部が千葉に対する特殊な人事の意図を外部の何者かに説明し、その情報が矢野に流れたとみるのが自然なようだった。

 いずれにしても、直子が取り上げた2人の警察官は、矢野と明代にとって万引きとアリバイ工作の事実を暴かれた最もいまわしい相手だった。人事をあげつらったのは、彼らが「明代は万引きをしていない」という主張を立証できないことの裏返しにすぎなかった。

山田署長が言い残したこと

 さて、警視庁では、署長が他の警察署に異動していく際には、副署長の評価を行うことになっている。当然、その評価、評定は本庁に提出され、のちのちの人事に影響を及ぼす。そのことをよく知っている山田署長は、退任の際、千葉に対してこういったという。

「お前のことはよく書いておくからな」

 と。度重なる政治家の要求に始まり、書類送検や記者会見をめぐり激しく対立してきた千葉を、山田署長はその言葉通り評価したのだろうか。

 もちろん、千葉が山田署長の言葉を額面通りに受け取ることはなかったのだが。それからひと月後、山田署長が千葉について外部に対してどんな評価をしていたかをうかがわせる出来事があった。4月に入り、東村山署は新しい署長を迎えた。それからしばらくたったころ、新署長は千葉にこんなことをいったのである。

「副署長は、聞いていた話とはだいぶ違いますね」

 と。普通はあらたまって伝えるような言葉ではない。新署長は聞いていた話とのあまりの開きに驚いたから、千葉にわざわざこういったのだろう。

 すると、新署長は千葉についてどんな話を聞いていたのだろうか。新署長の言葉から類推すると、新署長は山田署長から、「千葉は上司の命令を聞かない反抗的なやつ」とでも聞かされていたのだろうか。

(つづく)
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多摩湖寿会事件・補助金返還問題 最終回
「予定金額」を送付した事情

 2021年10月23日、多摩湖寿会会長の清水澄江が東村山市に対する補助金返還額のすべてを山川に請求してきたのは、東村山市が清水に対して送付した「多摩湖寿会に係る東村山市老人クラブ運営費補助金の返還予定金額について」と題する書類に基づいていた。自治体が補助金の返還を請求するにあたり、このような文書をわざわざ送付することはあまりないのではないかと思われるが、東村山市はいかなる経緯で「予定金額」などとする書類を清水に送付したのだろうか。

 所管が作成した起案書には、その経緯が記載されていた。それによれば、2021年10月11日、清水から所管に電話があり、こういってきたという。

「補助金の返還に向け、返還金額の詳細内容を把握した上で関係者との調整を行っていくため詳細内容がわかる資料を提示してほしい」

 所管はこれを、「多摩湖寿会内部での調整のため」に必要なのだと受け止めたようである。市としては、ようやく返還額を確定でき、あとは多摩湖寿会に返還してもらうだけという段階にこぎつけた。変なところで事態をこじらせるのは得策ではない。ここは清水の要望をおとなしく聞き入れようということになったとでもいうところだったのだろう。

 清水はそれまでに所管が行った補助金の返還額を確定させるためのヒアリングに出席していて、「東村山市が返還を請求するのは多摩湖寿会であることに変更はないこと」およびその請求が11月ごろには行われることを非公式に聞いていたのだろう。

 その時点で、清水が補助金の返還をなんとしても山川にさせたいと考えていたことに変化はなかった。多摩湖寿会が東村山市からの返還請求を受け取ってから山川に請求したのでは時間がかかる可能性があるし、そもそも山川が応じるかどうかも定かでない。そこで清水は、正式な返還請求が来る前に山川に請求し、反応をみようと考えたのではあるまいか。支払い期限を11月末日としていたのも、市からの正式な請求に間に合わせようとしたのだろう。清水が市に返還予定額を提示させたのは、東村山市が考えたように、多摩湖寿会内部の調整のためなどではなかったのである。

通知日と同日だった納付期限

 山川が清水澄江から乱暴な請求を突きつけられてからひと月がたったころ、議会筋から山川のもとに「清水が市から返還を求められていた補助金を全額納付した」との情報が伝えられた。何があったのかはわからないが、東村山市からの請求についてはまず多摩湖寿会が支払わねばならないのだということを、誰かが粘り強く諭したのかもしれなかった。その分を取り返したければ、あらためて山川に請求する以外にはないのだということも。

 清水は地元では知られた自民党員である。だから、これ以上清水が抵抗を続ければ、自民党の市長にも迷惑をかけることになると、自民党の誰かが説得にあたった可能性もあろう。いずれにしても、いったんは山川に対して理不尽な請求を突きつけたところからすれば、最終的に清水が多摩湖寿会として返還に応じたのも納得ずくだったとは思えない。

 2021年11月15日、清水澄江は東村山市から返還を請求された44万3431円を、東村山市役所内にあるりそな銀行で振り込んでいる。ここでやや奇異に思われるのは、東村山市が清水に対して発出した「東村山市老人クラブ運営費助成金交付決定取消通知兼返還請求書」の日付が振込と同じ日付となっている点だった。つまり清水は、東村山市健康増進課から補助金返還に係る請求書を受け取ったその足で、市役所内にあるりそな銀行の出張所に行き、返還金を納付したということになる。

 この補助金返還に関する起案書をみると、そのあたりの事情がはっきりする。それによれば、本件補助金の返還に係る請求書は2021年11月15日に手渡しで行われる予定であること、納付期限も通知日と同日であることが記載されており、その日程については多摩湖寿会と調整済みであることが明記されていた。この記載が何を意味するのかは定かでないものの、少なくとも通知日と納付期限が同日であることを清水の側も了承していたことになる。

失われた寛容さ

 こうして東村山市は、多摩湖寿会が補助対象外経費を補助対象経費として計上していた部分に対する補助金返還問題に終止符を打つことができた。では、多摩湖寿会の会計処理の中で、東村山市が補助対象外経費と認定したのは具体的にどんな部分だったのだろうか。

 東村山市が清水に対して手渡した裏付け資料によれば、補助対象外経費として指摘されているのは、①他団体への協賛金・協力金・募金・寄付金②酒類、会食に係る経費③使途が不明確な経費(領収書の不備)④サークル活動費の上限額超過――などの項目である。このうち③④はやむを得ないと思うが、いずれも社会福祉協議会が行った会計監査でいったんは問題なしと認められたものだった。

 当時、多摩湖寿会の会計担当者だった山川昌子によれば、少なくとも①や②の支出については前任者から引き継いだとおりに処理したという。②については、監査の担当者から、酒・アルコールは補助対象外だが、その他の「会食に係る経費」については補助対象でよいとの指導もあったという。

 つまり、これら酒・アルコールを除いた支出は以前から必要経費として扱われていたから、会計監査でも特段の指摘をされることなく認められたということと理解できた。老人クラブの会計監査は、よくも悪しくも一定程度、寛容な扱いがされていたと理解していいのではないだろうか。ところが、今回の補助金返還項目の中には「会食に係る経費」も含まれているのだった。

 いったんは監査の通った多摩湖寿会の会計処理が再調査となったのは、新たに多摩湖寿会会長となった清水澄江が、山川が会計を担当していた時期の会計処理について不適切な部分があるなどと主張し、それを朝木直子が議会で取り上げたことによる。今回、東村山市から補助金の返還を求められるに至った原因を作ったのは新会長となったばかりの清水澄江自身と市会議員の朝木直子だったのである。

 現実には、朝木は「不適切」などとは比較にならない卑劣な言葉で山川を非難した。清水澄江が身内である多摩湖寿会の、しかもすでに市の監査が終了している会計について、内部的な指摘にとどまらず、市に対して再調査するよう要求した目的は、朝木が議会で山川を追及し、補助対象外経費と認定された経費を山川に返還させることにあったのである。

 ところが、清水と朝木の目論見は大きく崩れ、清水が山川に払わせようとした金は、一円残らず清水自身が支払うハメになってしまったというわけだった。多摩湖寿会が支払ったのだとしても、返還金44万3431円は年金生活者である会員が負担させられたことになる。本来はなかったはずの余計な負担をさせられたことについて、会員がどう考えているのか。

 清水と朝木の動きによって影響を受けたのは、多摩湖寿会の会員だけではなかった。補助対象経費に関して寛容な扱いを受けてきたのは、もちろん多摩湖寿会だけではない。ところが、朝木の議会質問によって補助対象経費の判断が厳格化されることになり、その影響は東村山市内のすべての老人クラブに及んだのである。

 このため東村山市内の老人クラブでは、補助対象経費に対する判定がより厳密になったことで、会計担当者の負担は以前よりも大きくなったというのが一般的な評価である。それが原因してかどうか、近年、東村山市では複数の老人クラブが解散したと聞く。

 最終的に清水澄江が東村山市の返還要求に応じて全額を支払った事実を朝木直子が知らないことはあり得ない。しかし、清水澄江にとっても朝木直子にとっても、あれほど山川に払わせろと主張していた手前、その事実を議会で公表されることは都合が悪いと感じたのかもしれない。だから朝木は、2021年3月議会を最後に取り上げようともしないということではあるまいか。そうだとすれば、朝木が議会で取り上げないこと自体、本件の本質が補助金使用のあり方を問うものではなく、山川に対する個人的感情に基づくものだったのではないかと評価されても仕方がないのではなかろうか。

 なお、清水澄江が東村山市に補助金を返還して半年になるが、その後、清水がその金額を山川に請求した事実はない。 

(了)
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多摩湖寿会事件・補助金返還問題 38
ブレのない回答

 補助対象外の飲食や他団体への協賛金、使途が確認できない経費など、補助対象経費として計上した支出の中に補助対象とは認められないものがあったとして、東村山市はかねてより老人クラブ多摩湖寿会に対して当該経費の返還を求めることを表明していた。東村山市議の朝木直子(「草の根市民クラブ」)は、2016年9月議会以降、議会が開会されるたびにほぼ毎回この件に関する質問を行ってきた。

 ところが、2021年3月の予算特別委員会で朝木がさらっと一言だけ進捗状況を聞いたのを最後に、議会ではいっさい取り上げられていない。ことは補助金という公金の返還をめぐるもの、すなわち東村山市の財産管理に関わる問題であり、あれほど執拗に追及してきた朝木がその後なぜ触れなくなったのか、多摩湖寿会の補助金返還問題はどうなったのだろうかと思っている市民は少なくあるまい。

 とりわけ朝木は、この不適切な会計処理の責任は当時の会計を務めていた山川昌子にあるから、市は山川個人に請求すべきだと主張していた。そう考えていたのは、山川が会計を退任した年に多摩湖寿会会長となった清水澄江も同じだった。

 老人クラブには代表者である会長がおり、その下に副会長や理事といった会長の補佐的役員や会計担当者がいるのが普通で、何かが起きたときに最終的な責任を負うのは会長のはずである。多摩湖寿会にも、山川が会計を担当していた時期に加藤幸雄会長が存在していた。今回の補助金返還問題は、清水が会長になる前の会計処理が問題とされているのだが、補助金の支出にあたって、会計担当の山川はすべて加藤会長の指示のもとで会計処理を行っていたのである。

 ところが、清水も朝木も、この5年間になぜか一言も、当該時期の会長である加藤幸雄の責任には触れなかった。これはかなり奇妙なことに思われた。

「返還は前会計の山川に対して請求するべき」とする朝木や清水の主張に対して、これまで市は、「補助金を交付した相手は会計担当者ではなく多摩湖寿会だったのだから、返還請求も補助金を交付した多摩湖寿会に対して行う」と答弁していた。きわめて冷静かつ合理的な判断というべきだった。

 2021年3月に朝木が行った質問に対しても、所管は「所管において(筆者注=多摩湖寿会との間で返還額について)最終調整の段階に入っている」とした上で、あえて「多摩湖寿会に返還を求めてまいりたい」と答弁している。進捗状況を聞かれただけであるにもかかわらず、所管が聞かれてもいない請求先まで答えたのは、これまで何度も「山川に請求すべき」というまったく筋の通らない主張を繰り返してきた朝木に対するアテつけだったのだろう。

 仮に清水が、すべての責任は山川にあると主張するのなら、いったん東村山市から請求された補助金を返還したあとで、あらためて多摩湖寿会として山川に対して同額を請求することを検討すべきなのである。多摩湖寿会の側にそれだけの正当な理由があれば、取り戻すことは可能なのではあるまいか。

送られてきた書面

 多摩湖寿会会長の清水澄江から、前会計担当者である山川のもとに「多摩湖寿会に係る補助金返還について」と題する書面が送付されたのは、上記の朝木の質問から7カ月後、2021年10月23日のことだった。その中身は以下のようなものだった。

①10月13日付で東村山市から「多摩湖寿会に係る東村山市老人クラブ運営費補助金の返還予定金額について」と題する通知書が送付されたこと。(受領は10月19日)
②その金額は平成24年度から同27年度までの分で、計44万3431円であること。
③10月20日、理事会で検討した結果、返還額のうち山川にまず32万803円を、前会長の加藤幸雄にも責任があることから、加藤には残り12万3431円のうち応分の負担をお願いすることとなった。
④上記については10月30日までに支払うよう求める。

 地方自治体が民間団体に対して補助金の一部返還を求めるにあたり、「返還予定金額について」というような詳細な文書を送付することは、普通はないのではないかと思うが、本件については実際に上記の文書が送付されたのだった。

 山川からみて、上記のうち③と④の根拠はとうてい納得できるものではなかった。ただ、これまでの清水の主張とやや趣が異なるのは、今回に限っては、なぜか前会長である加藤にも責任があるとしていた点である。とはいえ、加藤については「応分の負担」などというあいまいな記載にとどまっており、加藤が拒否すれば、負担しないのもやむを得ないという含みを持たせていた。

 これまで触れもしなかった加藤の責任を清水が初めて口にしたことは、様々な意味できわめて大きい。しかし結局のところ、この文書の内容は、東村山市が請求を予定している44万3431円のすべてを山川に支払えといっているに等しいものであるといえた。

 その上で清水は、「入金がない場合には、11月に臨時総会を開き、前会計の不祥事を説明する」(=趣旨)などとしていた。軽い脅しのようにも感じられた。

 しかし、内容的にももちろん、そもそもこの返還請求は多摩湖寿会に対してなされるものであるので、この請求に関して山川個人は関係がなく、清水の請求に応じる必要はない。山川はそう判断し、今回の清水の請求については放置することにした。

 それにしても、40数万円を請求するのに、10月23日に書面を送付して納付期限を10月30日までとするのは、いささか気が短いのではないかという気がした。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する  第2章 政治家による捜査介入         第40回
「亀井の胸先三寸」

 衆院選が終わっても、自民党の国会議員が朝木事件に関して警察庁と警視庁に圧力をかけ、国会質問に利用するために書類送検を遅らせた事実は消えない。そのことを亀井が意識していないはずはなかった。つまり、亀井にとってこれはけっして表に出してはならない事実だっただろう。そのことを裏付けるように、衆院選後の96年10月29日、「亀井の配下」を名乗る男が東村山署に現れた。

 以下は、対応した警察官とのやりとりである。

  近いうちに警視庁の2大不祥事が表面化する。

――大不祥事とはオウムの件か?

  1つはそうだ。しかし、話題としてはオウムほどではないが、東村山署のもう1つの大不祥事が出てくる。亀井(静香)は、東村山署の中に特定の宗教団体とつながりのある人物がいるとみている。

――その大不祥事とは朝木の件か?

  そうかもしれない。それが表面化するかどうかは亀井の胸先三寸だ。東村山署内にスパイが複数いることを、警察上層部は知っている。来年2月になったらまた来る。

「表面化するかどうかは亀井の胸先三寸だ」とは、「よけいなことをいわなければ悪いようにはしない」という脅しである。自分に盾ついたことは簡単には許さないというメッセージでもあろう。普通の警察官がこの話を聞けば、亀井だけには逆らってはいけないと肝に銘じるだろう。千葉は、周囲の警察官を震え上がらせ、自分を孤立させようとしていると感じた。

白川勝彦からの申し入れ

 それから2週間後の96年11月12日、今度は亀井の配下である国会議員の白川勝彦から東村山署に妙な問い合わせが来た。問い合わせの内容は「副署長と捜査係長は創価学会員であるのか。そうでないなら宗派は何であるか」というものだった。

 白川は衆院選後に国家公安委員長に就任していた。国家公安委員長とは警察庁を所管する警察のトップだから、一介の警察署にとってこの問い合わせは軽いものとはいえない。これを受けた署長にとっては命令に近いニュアンスを感じただろうことは想像に難くない。

 山田署長はただちに千葉と捜査係長に、白川からの要請を伝えた。これに対して千葉と係長は「2人とも創価学会員ではない」とのみ回答した。千葉はそれ以上の回答をする必要はないと判断したのだった。

 すると、山田署長は千葉らに対して「宗派を答えろ」と指示してきた。署長としては国家公安委員長の要望には答えてもらわなければ、自分の立場がないと思ったのか。あるいは以前にも、白川が少年の名前を矢野に教えるよういってきた際、この要請を拒否したという前例があった。署長としては、再び白川の顔を潰してはいけないとでも思ったのかもしれなかった。

 署長からの再度の指示に対しても、千葉は断固として「回答しない」と突っぱねた。白川が千葉の宗派を聞く目的は朝木事件との関係以外には考えられない。しかし、捜査員の宗派が何であろうと、それによって政治家が捜査の中立性や公平性の判断をするということになれば、それは証拠に基づく捜査の原則を歪めることであり、何より政治家の捜査介入にほかならない。

 回答を拒否するという千葉に対して署長は「バカヤロー」と怒鳴ったが、千葉は署長に対してこう答えた。

「政治家が捜査に介入することになるので回答を拒否する。まして要求してきたのは国家公安委員長であり、前例となりかねない。よって、回答を拒否する」

 ここまでいわれれば、山田署長も引き下がるしかなかった。山田署長の内心ははらわたの煮え返る思いだったかもしれないが、間違った前例を作らなくてすんだと考えるべきだろう。

態度を変えた亀井

「東村山署の大不祥事が表に出るかどうかは亀井の胸先三寸だ」などと豪語していた亀井配下の男は、前回来訪時に約束したよりも早い年明けの97年1月30日に東村山署に姿をみせた。対応した警察官が、男が亀井からどんな指示を受けてきたのかと身構えていると、男の話はこれまでとは大きく趣が変わっていた。

 男はざっと、以下のような話をしていった。

「亀井は、矢野との関係を維持することにメリットよりもデメリットの方が大きいと感じているようだ。だから、亀井は今ではスケジュールが合わないということで矢野との面会を断っている」

「亀井は『警視庁を敵に回してしまった』といっており、この件からはもう手を引くだろう」

「衆院選での自民党の大キャンペーンは、自民党と矢野の双方が朝木事件を利用した感がある」

「朝木が殺されようが自殺しようが、そもそも亀井にとってはどっちでもよかったのだ」

「亀井の配下」の男が東村山署にたびたび来ては、亀井が警視庁に揺さぶりをかけるような発言を繰り返していることについて、警視庁もさすがに業を煮やしたのかもしれなかった。警視庁上層部も警察庁も、書類送検を遅らせることはまだしも、「警視庁の不祥事」となると、これはとうてい容認できないとなったものと思われる。

 警視庁の怒りを知った亀井が、あっさり手を引くことになったことからも、最初から朝木事件の真相を解明しようという気などなかったことは明らかである。「朝木が殺されようが自殺しようが、そもそも亀井にとってはどっちでもよかったのだ」という男の評価はまさにそのとおりだろう。この亀井の手のひらを返したような態度は、かつて亀井が「これを自殺として片づける度胸があるか」と警視総監らを脅したことも、たんに書類送検を遅らせることが目的だったことを裏付けている。

 なお、「亀井の配下」を名乗るこの男も、ほどなくして矢野との関係を断ったという。矢野の利用価値はなくなったということだったのだろう。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第2章 政治家による捜査介入         第39回
消すことのできない大不祥事

 96年1月に矢野と面会した亀井静香にしても、警察は「事件性は薄い」と結論付けたが、あくまで「自殺と断定したわけではない」とするスタンスであることに変わりはなかった。その後も亀井を本部長とする自民党組織広報本部は、衆院選に向けて反創価学会・公明キャンペーンを全国で繰り広げ、朝木明代の転落死事件はその主要な主張材料としては最大限に活用されたのである。

 その一方、朝木事件の書類送検延期に関与した自民党の一部では、千葉に対する警戒感を緩めてはいなかった。96年10月20日に予定される衆院選までの間に千葉が自民党議員による捜査機関への介入の事実を暴露するようなことがあれば、これまで全国に広げてきた反創価学会・公明キャンペーンの効果が一気にしぼんでしまう恐れは十分にある。このキャンペーンを推進してきた中心人物たちがそう考えたとしても不思議はなかった。

くすぶっていた千葉への怨念

 衆院選までに千葉を確実に黙らせておく必要があると考えた者がいたようだった。その具体的な動きが見えたのは、衆院選まで20日足らずに迫った96年10月3日のことである。

 1人の年配の男が東村山署を訪れ、男は実在する名前を名乗ると、対応した警察官に対してこういってきたのだった。

「自分は亀井静香の配下の者だ。東村山署は大きな不祥事を抱えている」

 報告を受けた千葉は、「亀井静香の配下」ということで、自分に対する圧力のつもりか、あるいはなんらかのけん制だろうかと考えた。

 朝木明代の転落死をめぐり、書類送検を止められたあと、亀井静香一派の国会議員から、矢野が「暴行犯」として突き出した無実の少年の名前を教えたらどうかと働きかけてきたり、朝木事件を担当している捜査員の氏名を教えるよう要求してきたことがあった。捜査介入と受け取れる行為である。

 それらの要求を千葉はいずれもはねつけた。ちょうどそのころ、「自民党内で『千葉は創価学会のスパイ』『千葉は学会員で自殺を捏造した』などの説が出回っている」という話が警視庁の国会筋から千葉に伝えられたことがあった。

 国会議員が少年の事件で介入したのは、もとはといえば、矢野の依頼によるものだった。矢野はこの「事件」の背後に創価学会の存在があると匂わせていたから、千葉が国会議員の働きかけをはねつけたことで、当時、創価学会・公明叩きに血眼になっていた亀井一派の間で「千葉は創価学会員ではないのか」などと邪推され、それが「千葉は創価学会のスパイ」という噂へとエスカレートしていったのかもしれなかった。その根底には「国会議員の顔を潰された」という歪んだエリート意識があったのだろう。

 10月から11月にかけては、書類送検が止められた背後で亀井が動いているという情報が千葉の耳に入った。千葉が山田署長に「亀井が動いているという情報があるが」と聞くと、「亀井先生の名前を出すな」と怒鳴られたこともあった。山田署長を通じて、「千葉は書類送検引き延ばしの背後に亀井がいると考えている」という情報が上に伝わった可能性もないとはいえない。

 それから1年後、「亀井の配下」と名乗る者が東村山署にやってきて、「東村山署の不祥事」を匂わすのだから、千葉にはやはり朝木事件と無関係とは思えなかった。

大功労者の不安の種

「亀井の配下」を名乗る者が再び東村山署を訪れたのは、それから2週間後、95年10月16日のことである。男は、前回いった「東村山署の大きな不祥事」とは何かををうかがわせる具体的な内容に触れてきた。対応した警察官に対して男はこういった。

「副署長の千葉は創価学会のシンパなのか?」

 警察官が困惑していると、男はこうたたみかけたという。

「中身はまだいえないが、警視庁には近いうちに大不祥事が明るみに出る。これを動かしているのはかなり上の人物だ」

「かなり上の人物」が誰なのかは明らかではないものの、この人物は20日に迫った衆院選まで、どうしても千葉の口を封じる必要があるとでも考えたのか。いずれにしても、男の口から千葉の名前が出たことで、男のいう「警視庁の大不祥事」なるものが「副署長の千葉」と無関係ではないらしいということだけははっきりしたと千葉は理解した。

 10月20日、衆院選で自民党は勝利を収め、政権の維持に成功した。亀井は「反創価学会・公明キャンペーンの成果だ」と自画自賛したものだった。亀井は一挙に政権維持の大功労者としてもてはやされ、厚遇されることとなったのである。

 しかし亀井にとって、「反創価学会・公明キャンペーン」のために、警察庁と警視庁を巻き込み、国会を利用して「創価学会疑惑」を拡大させたことだけは世間に知られるわけにはいかなかった。選挙には勝ったが、この件が明るみに出て新政権の足を引っ張るようなことになれば、一転して今度は自分の責任が問われかねない。

 そうなれば、栄誉ある大功労者から、国民を騙した悪党として一身に非難を浴びることになる――当時、自民党内においておそらくは称賛の頂点にあった亀井にとって、依然として千葉は邪魔な存在だったのではあるまいか。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第2章 政治家による捜査介入         第38回
表に出してはならない事実

 朝木明代の転落死について、95年12月22日、警視庁東村山署は記者会見を開き、「事件性は薄い」(=つまり「自殺」)との結論を発表し、書類を東京地検八王子支部に送付した。この日、千葉は多摩方面の警察署で行われた会議に出席していた。

 記者会見に出席したマスコミ各社は、転落死から書類送検まで3カ月以上もの時間を要したことについて、多くの謎のある事件だったために慎重に捜査を進めた結果だろうと考えた。事実は、書類は9月末の時点で完成していたにもかかわらず、送検を止められていたのだった。

 そのことを裏付ける内部書類も存在している。95年10月ごろ、現場担当者から上司に提出された報告書に「朝木市議の転落死事件」として、「国会開会中のため留保していたが、近々に送致予定」とする趣旨の記載と、そのことが警察庁も了解済みであることをうかがわせる記載があるという。

「国会開会中のため留保」とする趣旨の記載と「警察庁も了解済みであることをうかがわせる記載」が示すのは、95年10月の時点で書類送検が留保されていたこと、その理由が「国会の開会中」であること、それを警察庁が了解済みだったということである。同年11月に行われた国会質問が自民党と警察庁、警視庁の3者による打ち合わせのもとに行われたものであることがマスコミに知られれば、警察上層部の責任問題となることは避けられない。

 それだけではない。国会質問の舞台裏が白日の下にさらされることになれば、自民党のシナリオは台無しとなり、衆院選に向けて取り返しのつかないダメージとなろう。だから、この情報操作に関わった者たちは、朝木事件に関して東村山署がどんな結論を出したかなどではなく、水面下で行われた画策や駆け引きの実態が知られることなく、無事終わることだけを考えていたのではあるまいか。

 記者会見は無事終了したが、自民党と警察庁および警視庁の上層部が結託し、万引き被害者や「他殺疑惑」報道の被害者である創価学会、さらには捜査にあたった現場の警察官らの思いを踏みにじった事実は消えようがなかった。つまり、情報操作に関わった者たちにとって、この先もずっと隠し通さなければならないということを意味した。

矢野が亀井静香と面会

 書類送検の延期に関与した警察側の関係者とは異なり、東村山署が行った発表内容そのものに対して異議を挟む必要があったのが矢野穂積であり、事件を政争の具としてきた自民党、その中でもこの戦略の主導者である自民党組織広報本部の亀井静香だった。「事件性は薄い」とは事実上「自殺」と断定したに等しいし、世間は常識的にそう受け止めることは明らかだった。

 自殺ということになれば、明代の万引きの事実を認定したに等しく、そうなれば明代のアリバイを「証言」していた矢野は嘘をついていたと認識されるだろう。絶対に非を認めることのない矢野にとってとうてい受け入れられることではなかった。

 衆院選までこの事件を「創価学会の関与が疑われる事件」として引っ張りたい亀井にとっても自殺では困る。明代が転落死した95年9月初旬の時点で、自民党が国会で取り上げることをすでに知っていた矢野は、亀井と自分の利害が一致していることをよくわかっていた。

 とはいえ、「事件性は薄い」とする警視庁の発表がこのまま世間に受け入れられれば、「やはり明代の転落死は自殺だった」という評価が定着してしまう。そこで矢野は96年1月19日、朝木直子とともに、自民党本部に亀井静香を訪ねた。東村山でも自民党とは敵対関係にある矢野を亀井が迎え入れるとは、それなりの密接な関係があったことをうかがわせた。

苦しい論理のすり替え

 矢野は亀井との面談のもようをさっそく『東村山市民新聞』で取り上げた。それによれば、亀井は「事件性は薄い」とする警視庁の発表内容について警察庁長官にその真意を確認したところ、警察庁長官はこう答えたという。

「検察庁から『(司法解剖に関する)報告書』を出すよういわれていたので、年も変わるし、年末には捜査の区切りをつけたいと再三東村山署がいってくるので、やむを得ず認めた。(司法解剖に関する)『報告書』の内容は『事件性は薄い』というもので自殺と断定したものではない」

 95年12月22日に東村山署が記者会見した内容は、「事件性は薄い」と判断したこと、その判断の根拠となる関係書類を東京地検に送付したこと(=いわゆる書類送検)の2点である。通常、書類送検では「書類を検察庁に送る」などというが、「『報告書』を出す」などとはいわないし、東村山署が東京地検に送付したのはもちろん「(司法解剖に関する)報告書」ではない。

 したがって、警察庁長官が朝木事件の書類送検について説明するにあたり、「(司法解剖に関する)報告書」などという文言を使用することは常識的にあり得ず、その時点で上記の警察庁長官の回答なるものが作り話であると断定できる。

 矢野は東村山署が「事件性は薄い」とする結論を出し、東京地検に書類送検した事実を重く受け止め、少なくとも市民に対してなんとかごまかさなければならないと考えたのだろう。そこでひねり出したのが「司法解剖に関する報告書を送っただけ」というかなり苦しい論理のすり替えだったのである。このこと自体、東村山署の結論に対して正面から反論する材料を持たない矢野の内情を物語っていた。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第2章 政治家による捜査介入         第37回
町を蔽う異様な雰囲気

 記者会見の前日、千葉がいった「かん口令」という言葉を、きわめて重く強い命令と私は受け取った。警察がかん口令を出すには相当の理由があるはずである。明代の転落死に関して警察がかん口令を敷く意味は何なのか。

万引き被害者に対する千葉の言葉から察すると、明代の万引き事件に関する東村山署の判断に揺るぎはないことが推測できた。すると、明代の転落死が自殺とすれば、その動機はあることになり、当初の東村山署の見立てと変わらない。つまり、転落死に関する東村山署の判断が変わったということではないことがうかがえた。そう考えると、千葉がいった「(朝木事件に関連する)かん口令」とは何に対するものなのだったのだろうか。

明代の転落死をめぐっては、当時、週刊誌をはじめとする疑惑報道に加えてTBSなどのテレビまでが疑惑仕立ての報道を行っており、「自殺ではないか」とする見解を容易に表明することもはばかられるような雰囲気だった。とりわけ矢野らは「創価学会の関与」をしきりに主張し、創価学会を敵視する発言を繰り返していたから、その結果、「自殺」か「他殺」か、どちらの判断を支持するかによって一種の政治的、思想的立場を試されるかのような異様なムードが漂っていた。

いかに中立的な立場で東村山署の判断を信用したのだとしても、「彼は『草の根グループ』に批判的な人だから」とか「あいつは創価学会寄りだから」などと陰でいわれるのではないかというような漠然とした不安を、多くの市民が感じていたのだった。東村山署に対する見方もまた、客観的な証拠に基づく捜査結果ではなく、「中立公平な捜査をしているのか」「創価学会をかばっている」といった捜査の本質から外れた批判も目立った。マスコミ報道の上では、むしろ「東村山の捜査は創価学会寄り」とする根拠のない憶測が幅をきかせているという状況にあった。

さらに1カ月前の11月には、国会において自民党議員が副署長を名指しで批判する発言もあった。そんな状況の中で、東村山署(警視庁)は朝木事件に関して週刊誌などのメディアについては対応をしないという方針にでもなったのだろうかなどと考えた。

「かん口令」の真意

実際には、千葉がいった「かん口令」とはそういうことではなかった。国会で自民党議員の質問に答えた警察庁刑事局長が「(現在も、)あらゆる可能性を視野に入れ、自殺・他殺両面からの捜査を進めており」という事実に反する答弁をしたことを千葉が知らないはずがない。当時(あるいは今も)、警視庁上層部だけでなく、少なくとも東村山署内では、刑事局長が事実に反する答弁を行ったことを多くの署員が知っていただろう。

ただ、政権政党と警察トップによる国会を利用した情報操作の事実を知っていたとしても、組織に属する者として、簡単に口にするなどできることではない。我が身がかわいくない者はいない。保身を考え、口をつぐむのが普通だろう。

警視庁内部ではこのたびの国会質問と警察庁刑事局長による虚偽答弁について表立って問題視するような者はおらず、むしろこの大不祥事には触れないような空気だったと思われる。現場を知り、当事者たちを見てきた1人の警察官を除いて。

千葉にはそのこともよくわかっていたのだろう。だから、千葉は記者会見から排除されたとき、「朝木事件に関していっさい口外してはならない」という趣旨だと理解したという。捜査に関することなら、千葉が記者会見に出席して説明しても特段の差支えはないはずである。しかし、千葉が知るのはそれだけではない。

千葉は山田署長が東村山署に着任する前から捜査を指揮していたから、捜査がどのように進み、いつ終了し、東村山署がどのような結論を出したかをすべて知っている。国会における刑事局長の説明と現場の捜査状況の食い違いを克明に、説得力をもって説明することができる。

警視庁上層部が恐れたのは、記者会見の席で刑事局長が行った国会答弁に千葉が触れることだったのだろう。刑事局長の答弁が虚偽だったこと、自民党と示し合わせて行われた嘘であることが明らかになれば、当然、ことは警察庁だけの問題ではすまなくなる。

記者会見への出席禁止を言い渡されたとき、千葉の脳裏に浮かんだのは、自分が名指しされ批判された国会での光景だった。国会でのやりとりを含めて、事件に関してはいっさい外部に話してはならないと署長はいっているのであると千葉は理解した。

仮に国会茶番劇の真相を千葉が明らかにすれば何が起こるか。当然、千葉本人も無傷というわけにはいかないだろう。千葉が私にいった「かん口令」という言葉の背後には、政治権力をめぐる野望と画策、政治家に協力した関係者の計算と思惑、上の動きをうかがう組織と人間関係といった、明代の転落死とは直接関係のない様々な出来事や動きを含むものだったのである。

前提にあった「大きな不正義」

 万引き事件に関して千葉がいった「(被害者の)小さな正義だけは信じてあげてください」という一言も、その前提に、政治家と警察庁刑事局長が行った事実を曲げる質疑とそれを容認した警察上層部に対する落胆と怒りがあったのではあるまいか。千葉には、法と正義を守るべき警察は大きな不正義を犯したという認識があった。

 それに対して、万引き被害者の訴えは、無名の市民の訴えだとしても、嘘のない声こそ警察は守らなければならない――「小さな正義」という言葉で、千葉はそういう思いを伝えたかったのだろうと思う。もちろん自分がその組織の一員であり、「かん口令」を命じられた身であるという忸怩たる思いとともに。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第2章 政治家による捜査介入         第36回
記者会見から外された副署長

 朝木事件で書類送検の先延ばしに関与した警察庁および警視庁上層部と自民党の政治家にとって、当面の心配のタネは、副署長の千葉がその事実を公表するのではないかということだったのではないかと推測する。そのことを如実に表す出来事があった。

 95年12月22日昼ごろ、警視庁東村山署は朝木事件の捜査結果について記者会見を開き、「事件性は薄い」とする結論を発表した。事故はあり得ないから、事実上、「自殺」と認定したに等しかった。この記者会見について、当時、その発表内容以外の事実に着目した者は、警察上層部以外には誰もいなかっただろう。この最も重要な記者会見の席に、万引き事件から転落死に至る朝木事件の捜査を指揮し、それまでマスコミにたびたび捜査状況などを話していた副署長、千葉英司がいなかったのである。

 実はその前日、千葉は山田署長から「明日の記者会見には出てはならない」として、別の警察署で行われた会議への出席を命じられていた。千葉は「朝木事件については何もしゃべるな」との意味であると理解したという。捜査は公正中立に行われ、捜査結果については何の問題もない。

 すると、山田署長のいう「事件についてしゃべってはならない」こととは、千葉の知る限り、警視庁上層部が政治家の脅しに屈して書類送検を遅らせたこと以外にはない。言い換えれば、朝木事件の裏で起きていた国会議員による捜査介入事件であり、国会における虚偽答弁事件である。

 また国会茶番劇の過程で、捜査現場の副署長をやり玉にあげ、その真摯な捜査活動を揶揄するなど国会議員としてとうてい許されることではなく、結果としてその発言を追認した国家公安委員長と警察庁刑事局長も同罪というべきであり、いずれも国民に対する重大な裏切り行為である。山田署長のいう「しゃべってはいけない」こととはそういうことなのだった。

 千葉が記者会見の席にいれば、記者から国会で副署長が名指しされた内容に関して質問が飛ぶ可能性もあろう。それに対して千葉が「当時、捜査が継続していた事実はない」とでも答えれば大変なことになろう。千葉外しを命じた上層部はそこまで想定していたのだろう。

曲げられた被害者の訴え

 私が初めて東村山署に取材に行き、千葉に面会したのは95年12月21日だった。まさかその日が記者会見の前日であるとは知る由もなかった。私は前日、電話で副署長に対する取材を申し込んだが、その時点では取材を断られた。

 矢野と直子は明代の自殺だけでなく万引きについても真っ向から否定していた。直子が「創価学会を折伏する!」で語ったように「万引きと自殺は表裏の関係にある」と考えること自体には合理性があると思えた。

 では、万引きの事実関係はどうなのか。私は先に明代の万引きを届け出たブティックを訪ねた。明代の万引き現場を目撃し、そのまま立ち去った明代を追いかけたという女性店主の話は具体的であり、嘘があるとは思えなかった。当時、ほとんどの週刊誌が矢野と直子の主張を好意的に取り上げ、「他殺疑惑」と騒いでいた。

 記事には「女性店主は万引き事件を捏造している」とする趣旨の矢野のコメントが掲載されていた。「他殺疑惑」の記事があふれる中で、万引き事件にも疑問があるのではないかとの印象が広まったことは否定できない。こうした報道の結果かどうか、当時、ブティックには頻繁に「ウソつき」「卑怯者」などの嫌がらせ電話が相次いだ。取材によって、洋品店主は報道によっても深く傷つけられていたことを改めて知った。

 警察が万引きの事実を認定し、書類送検までしているにもかかわらず、被害者の訴えがここまで疑われ、そのあげく非難までされるとは尋常とは思えなかった。この状況について、東村山署はどう考えているのか。また、転落死事件の捜査状況は――。東村山署に対する取材は初めてでもあり、ざっと上記について要点を聞きたいと私は考えた。

 翌12月21日、直接行けばなんとかなるかもしれないと、私は東村山署を訪ね、受付の警察官に用の向きを伝えた。すると幸運にも、副署長から面会するとの回答をもらったのだった。

 あとで聞いた話では、千葉は当初、取材を断ろうと思ったが、取り次いだ警察官から私がもう署に来ていると聞き、仕方なく面会に応じることにしたのだという。

「かん口令」の意味

 前日、取材を断られていた私からすれば望外の展開だった。受付の場所から署内に入っていくと、奥から出てきた千葉は私に対して一言こういった。

「朝木の事件に関してはかん口令が出ており、質問にはいっさいお答えできないんですよ」

 と。仕方なく「万引き事件については」と聞くと、千葉は「街角の小さな正義を信じてあげてください」とだけ答えた。この日の取材で千葉が答えてくれたのは、たったの二言だけだった。

 しかし、この2つの回答には多くの情報が含まれていると感じた。

 のちに千葉本人から確認したところ、当時、正確には東村山署内に「かん口令」が出ていたわけではない。このとき千葉はすでに、山田署長から翌日に予定されている記者会見に出席しないよう命じられていた。万引き事件から転落死に至るまで捜査を指揮し、事件の全容を最も知る千葉に対して記者会見に出るなとは、「事件に関して何もしゃべるな」という趣旨だと千葉は理解したという。そのことを千葉は「かん口令」と表現したのだと説明してくれた。

 本来なら、記者会見で捜査結果を発表し、記者からの質問に答える最適任者は捜査を指揮した千葉をおいていなかった。千葉にとってはとうてい納得できない命令だったろう。だから千葉は、私に対して「かん口令」という強い言葉を使ったのだと思われた。千葉個人に対する「かん口令」ということだった。

(つづく)
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