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民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒

『民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒』(ユニコン企画発行、長崎出版発売、1200円+税)

現在の“東村山の闇”の原点である議席譲渡事件と女性市議転落死事故についてのルポルタージュ。今は絶版となっていて書店では買えないが、手元に在庫があるので、希望の方はこちらにメールしてください。書籍代+送料でお分けいたします。

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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第15回
矢野が情報をコントロール

 前回までみてきたように、95年9月1日午後10時ごろ、明代が東村山駅前のビルから転落して死亡するまでには、矢野と直子が説明する内容と、その説明とは矛盾する事実があった。明代の転落死が自殺と判断されてもなんら不合理とはいえないことをうかがわせるものだった。

 しかしもちろん、当時、転落現場や遺体以外の明代に関する情報はすべて矢野がコントロールしていて、「明代は『万引き』の濡れ衣と最後まで闘うつもりだった」と主張していた。マスコミは当然、明代が万引き容疑で書類送検されていたことを知っていたものの、それによって明代が精神的に追い込まれていたかどうかまで確認することはできなかった。

 マスメディアが入手できた基本的な判断材料は、東村山署による「事件性は薄い」という判断とその理由、および矢野と直子が発信する「自殺するような様子も動機もなかった」とする主張と「9月1日の明代の行動に関する情報」に頼るしかなかったといっていいだろう。とりわけ夕刊紙を含む日刊紙は、その時点で明代の行動や様子に関して情報も限られており、それを報道するかどうかはともかくとして、矢野と直子の説明を受け入れるしかなかった。

転落死直後の報道

 のちに明らかになった事実と矛盾する明代の行動に関して、マスコミがどう受け止めていたか、まず日刊紙の具体的な報道をみよう。



(転落死直後の報道)

9月3日付産経新聞


「草の根グループでは、『事件直前までいた事務所のワープロや電気はつけたまま。財布、カバンもおいたまま出ている。1日も宗教法人法の抜本改正を求める陳情書を都議会に出して勇気りんりんとしていた。自殺は考えられない』(草の根の矢野穂積市議)として他殺ではないかとしている。」

9月3日付朝日新聞

「朝木市議と同じ会派の矢野穂積市議によると、1日午後は書類送検された窃盗容疑事件で弁護士と打ち合わせをしたあと、7時前、東村山市内の事務所に2人で行った。矢野氏が外出し、9時過ぎに戻ると朝木氏の姿はなかった。その後、朝木氏から電話があり、「気分が悪い」と話していたという。」

9月3日付東京新聞

「朝木市議と同じ『草の根』の矢野穂積市議によると、1日午後9時すぎに矢野市議が同市本町の事務所に帰って来た時、朝木市議のワープロはふたが開き原稿が書きかけの状態で、部屋の照明やクーラーもつけっぱなし。朝木市議からは午後9時15分ごろ『ちょっと気分が悪いので少し休んでから(事務所へ)行きます』と元気のない声で電話が入ったきり連絡が途絶えたという。」

「矢野市議は『自殺する気配など全くなかった。殺人事件ではないか』と話している。

9月4日付産経新聞

「朝木市議は転落死した1日午後3時から5時に同事件の担当弁護士と都内で会っているが、同席した関係者(筆者注=矢野)によると、『特に変わった様子はなかった』という。」



 9月1日の朝木宅の電話発信記録や万引き被害者の証言によれば、この日明代が都内に行くことも弁護士に会うこともあり得ず、したがって「都内から帰ってきたあとに」事務所でワープロを打っていたとする矢野の証言も成立しないことになる。しかし、そのような説明を受けた記者たちは、もちろん反論の根拠も持たず、まさか矢野が事実とは異なる説明をするとも考えていないから、その説明を信用した様子がわかろう。

 9月3日付朝刊にすでに明代の行動に関する矢野の説明が掲載されているところからは、矢野は9月1日の明代の行動について9月2日の時点で事実を覆い隠すストーリーを完成させていたことになる。明代の転落死からわずか半日のことである。おそるべき素早さというべきだろう。

 矢野は直子の弟が東村山署で9月1日には1度しか電話をかけていないとの説明をしていたことを知らなかったし、明代が被害者の店の前に訪れていた事実をまだ知らなかったのだろう。矢野はあまりにも自分の都合に合わせてストーリーを組み立てたために、想定しなかった2つの証言が出てきたことで事実との根本的な矛盾が生じてしまったのである。

異質な要素

 明代の行動に関する矢野の上記の説明は客観的事実に照らせばいずれも成立しないとみるのが合理的である。すると、矢野が会合を終えて事務所に帰ってきたときの状況(ワープロやクーラー、照明の状況)と称する詳し過ぎる説明は、それ自体が転落死に関わる重要な事実を隠そうとしているのではないかという疑念を抱かせる。

 矢野が説明する会合から帰ってきたときの状況の中には、ワープロやクーラー、照明の状態とは性質の異なる要素があった。9月3日付産経新聞に掲載された「財布、カバンもおいたまま出ている。」との部分である。他の要素は最初から事務所にあるものだが、明代の財布やカバンだけはそうはいかない。

 極端にいえば、ワープロやクーラーなどは矢野1人でなんとでも繕うことができるが、明代の財布やカバンに関しては、明代が自ら持ってこなければ、事務所には存在し得ない。つまり、明代の財布やカバンが事務所にあったということは、その夜、確かに明代が事務所に来た証拠なのである。

 問題は、明代はいったいいつ、事務所に来たのかということだった。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第14回
2つの証言の信憑性

 朝木宅の電話発信記録と弟の証言、および女性店主の証言は、95年9月1日午後、明代は東京都庁で用事を済ませたあと都内で弁護士と面会していたとする矢野と直子の主張を根底から否定するものである。では、その信憑性はどうだろうか。

 弟が姉や矢野の説明をあえて否定する内容の証言をする理由はなく、電話発信記録の内容を把握した上の証言でもない。その後、弟が警察の捜査に異を唱えるなどした事実がないところをみても、弟の証言は何の思惑も計算もなく、自分の経験した事実を率直に証言したものであると判断できる。

 矢野と直子の説明によれば、9月1日午後の電話発信記録はすべて弟がかけたものということになるが、「1回だけ電話をかけた」という弟の証言は具体的であり、その証言を覆す具体的かつ客観的な証拠が出てこない限り、弟の証言の信用性が揺らぐことはない。電話発信記録に関していえば、矢野が警察に電話した時間をごまかしていることを考えれば、むしろ彼らの説明の方こそ信用できないというべきだろう。

 一方、女性店主の目撃証言は、前日の明代の様子(市長の車にはねられそうになったこと、びっくりドンキーのレジで青白い顔をしていたこと)からみて不自然なものではなく、むしろ前日と変わらず明代の精神状態が深刻な状況にあったことを推測させる。犯行を否認することはもうできないことを悟っていた明代は、女性店主に謝罪しようと店までやってきた――そう考えることも不合理とはいえまい。

 ただ、店主に謝罪するということは矢野の方針に逆らうものだった。だから明代は謝罪に踏み切れなかったということではないだろうか。今となっては明代が被害者の店を訪れた理由を確認することはできないが、電話発信記録という客観的資料の存在と合わせて考えると、転落死を遂げた95年9月1日、少なくとも明代はずっと東村山にいたこと、また明代が店にやってきたとする被害者の証言の信憑性は高いといえる。

明代の本心を語る矢野の発言

 明代が本心では謝罪したいと考えていたのではないかとみられることは、矢野が9月2日になって東村山署に電話した際に警察官に漏らした発言からもうかがうことができる。矢野は対応した警察官にこういった。

「市議の矢野です。昨日の午後9時15分ころ事務所に朝木さんから電話が入り、体の具合が悪いので、少し休んでから行く、といって電話が切れたのですが、この時間になっても来ないものですから、そちらに行っていないかと思って電話を入れたのです」

 明代がいつまでたっても事務所に来ないからといって、それだけで矢野はなぜ明代が「東村山署に行く可能性がある」と思ったのか。それも9月1日の夜に。

 東京地検八王子支部による取り調べを数日後にひかえていた明代が、東村山署に用があるとすれば、警察を通して被害者に謝罪の意を伝えてもらうこと以外にはない。冤罪を主張していた矢野の手前もあって、明代はその日の午後、被害者の店を訪れたものの、どうしても被害者に直接謝罪することができなかった。

 明代はその日の夜、今度は東村山署に行くことを考えていたのではないだろうか。同日午後に被害者の店を訪れていたことを考えると、明代が同じ目的で東村山署に行こうと考えていたとしてもなんら不自然ではない。

 明代はその意思を矢野に伝えていた。だから東村山署の警察官に対して矢野の口から思わず「そちらに行っていないかと思って」という言葉が出たということではないのだろうか。

矢野に伝えたのはいつか

 そういうことだったとすれば、明代が矢野に警察に行くという意思を伝えたのはいつだろうか。明代が謝罪するために警察に行くということは、明代の冤罪を主張していた矢野にとっても他人事ではない。明代が罪を認めて謝罪するということは、それまでの彼らの主張が虚偽だったと認めるということにほかならない。万引きをした明代だけでなく、矢野は明代の犯罪事実を知りながら、それを隠匿して虚偽の主張をしていたのみならず、被害者を嘘つき呼ばわりしたことを認めることになる。

 矢野がそうなることを指を咥えて見ているはずがない。だから、9月1日、矢野が弁護士に会いに行くより前に明代が謝罪したいと考え、被害者の店か警察に行こうとしていることを知っていれば、矢野が明代を1人東村山に残して都内に出かけることはあり得ない。すると、明代が警察に行きたいと考えていることを矢野が知ったのは、矢野が都内から東村山に帰ったあとということになる。

 矢野は午後7時ごろ東村山に帰ってきて、そのまま地域の会議に出席し、事務所に戻ってきたのは午後9時過ぎである。なお、矢野は明代も都内に行ったと主張し、一緒に東村山に帰ってきたと説明しているが、これまで見てきたとおり、明代はずっと東村山にいたのだから、午後7時の時点で明代が矢野と会っていることは考えにくい。したがって、明代が矢野に警察に行きたいという気持ちを伝えたのは午後9時よりもあとということになる。

 では、明代はどうやって矢野にその意思を伝えたのだろう。午後9時19分、明代から事務所の矢野にキャッチホンで電話が入るが、その電話の内容は「具合が悪いので、少し休んでから行きます」というものだった。それ以後、明代は電話をかけていない。すると、明代は警察に行きたいという意思をどんな手段で矢野に伝えたのか。

「少し休んでから行きます」と電話で伝えたあと、明代は実際に矢野がいる事務所に行き、警察に行って謝罪したい旨を矢野に伝えたのではないだろうか。それ以外に、矢野が東村山署の警察官に対して「そちらに行っていないかと思って」と発言した理由は考えられなかった。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第13回
説明と矛盾する記録

 95年9月1日、明代は午後に東京都庁に出向いて陳情書を提出し、その後、東京地検の取り調べに備えて弁護士に面会に行くなどしており、書類送検されたことで弱気になった様子はいっさいなかった――矢野と直子はそう説明している。しかし、その説明はどうやら「明代には自殺する動機も、そのような素振りもなかった」ことにするための巧妙な作り話だったのではないかと推測できる事実が明らかになった。

 矢野が東京都庁に行き、弁護士と面会した事実はあるのかもしれないが、少なくとも明代は同行していなかった。そのことを裏付ける結果となった根拠は、矢野自身が法廷に提出した95年9月1日の朝木宅の電話発信記録である。

 矢野はこの記録を、同日夜、連絡の取れなくなった明代の安否を確認するために東村山署に電話したと主張するための証拠として提出した。これまで検証してきたように、東村山署の記録および彼ら自身が主張する電話の内容と回数からすると、9月1日夜に矢野が東村山署に電話した事実はないこと、つまり矢野は上記の点に関して嘘をついていることは明らかだった。矢野は自ら率先して提出した電話発信記録によって、自分が虚偽の説明をしていることを明かしてしまったのである。

 その電話発信記録は矢野や直子が別の点においても事実と異なる説明をしていることを示していた。どういうことか。明代が東京都内に出かけたと矢野が説明する午後の時間帯に、朝木宅の電話から14:50〜15:19の間に6件の発信があったことが記録されていたのである。

重要さを持った弟の証言

 最初に確認したとおり、少なくともこの日の午前中、朝木宅には明代と直子の弟の2人がいた。すると、明代の行動に関する矢野と直子の説明によれば、14:50〜15:19の時間帯にはもう明代は不在だから、まだ自宅にいた弟が6回電話を使ったということになる。

 ところが弟は、矢野がこの電話発信記録を法廷に提出する以前に、東村山署が行った事情聴取で9月1日の行動を聞かれた際にこんな証言をしていたのである。

「9月1日は自宅から1度だけ電話をかけた」

 と。弟は夕方、姉の直子と父親の大統を松戸市まで車で迎えに行くことになっていた。上記の6回の発信記録のうち14:50と15:19の発信先は「千葉」で、通話時間はそれぞれ「1分20秒」と「6分23秒」である。

 弟は出発時刻が近づき、待ち合わせの時間と場所を確認するために松戸のアパートに住む姉の直子に電話をかけたと考えても不自然ではないだろう。その電話が上記のどちらであるのかを確定することはできないが、時間と場所の確認だけなら1分20秒もあれば足りるのではないだろうか。

 いずれにしても、弟の証言によれば、この2本の電話のうちの1本は弟がかけたものではない。ではこの電話をかけたのは誰なのかといえば、明代以外にはあり得ないのである。

 矢野と直子によれば、明代は昼過ぎに東村山から東京都庁に向かい、弁護士に面会して東村山に帰ってきたのは午後7:00ごろであるという。一方で、朝木の自宅の電話発信記録には、同じ時間帯に明代が自宅にいたのだと考えなければ説明し得ない記録が存在した。電話発信記録という客観資料と、なんら証拠もない矢野の主張のどちらかに信用性があるかは誰が考えても明らかである。

揺らぐ矢野と直子の説明

 それだけではない。もう1つ、矢野と直子の説明に反して明代がその日にはずっと東村山にいたことをうかがわせる直接的な目撃談があった。

 明代の姿を見かけたのは万引きの被害者である洋品店の女性店主である。店主によれば、9月1日の午後2時から3時ごろ、店先の、ちょうど明代が万引きをしたあたりに、しばらくじっと佇んでいたという。

 万引き事件で最初の取り調べを受けた後、明代が店内に入ってきて、女性店主に不敵な笑みを投げて黙って出て行ったことがあった。明代は被害者を威圧して被害届を取り下げさせようと企んだのだろう。しかし、被害者が脅しに屈することはなく、東村山署は被害者に対する悪質な威迫行為と判断した。

 被害者に対する脅しも矢野と共謀したアリバイ工作にも失敗し、書類送検された明代は、マスコミや支持者らに対しては冤罪を主張していたものの、内心ではどうあがいても逃げ場がないことをよくわかっていただろう。それでも東京地検から実際に出頭命令が来るまでは、まだ現実から目をそらすこともできた。自分が書類送検されたことを何かの間違いだったとして忘れてくれないだろうか――そんな甘い期待もどこかにあったかもしれない。

 8月末、そんな明代宛に東京地検八王子支部から1通の書類が届いた。9月5日に出頭するよう命じる内容だった。いかに強気を装っていても、さすがに来るべきものが来たこと、いよいよわが身が追い詰められていることを明代は悟っただろう。

 マスコミに対して冤罪を主張していたから、起訴されて有罪になれば、これまで以上に大きく扱われることは十分に予測できた。そうなれば、当然、明代のアリバイ主張の口裏合わせをした矢野の責任も厳しく追及されることも明代には十分予測できただろう。

 自分が犯罪者、泥棒の烙印を押されることから逃れる方法は2つしかない。1つは、アリバイを証明する証拠を探し出し、無実を証明すること。もう1つは、つまらないプライドを捨てて被害者に心から謝罪し、被害届を取り下げてもらうことである。

 2つの選択肢のうち、アリバイの証明(レシートを入手すること)に関してはすでに前日、びっくりドンキーまで行ったものの、やはり最初からあるはずがないとあきらめていた。そのことは、明代自身がよくわかっていただろう。明代に残された選択肢は被害者に謝罪して被害届を取り下げてもらうことしかなかった。

 明代はそう考えたのだと思う。9月1日午後2時から3時にかけての時間帯だった。店番をしていた女性店主は、店先のちょうど明代がTシャツを抜き取ったあたりに、見覚えのある女性がたたずんでいるのに気がついた。明代だった。

 今度はどんないいがかりをつけてくるのか――女性店主は明代の動きにさりげなく注意していた。しかし明代は、しばらく店主の方を見ていただけで店内には入らず、何もいわずに立ち去ったという。

 6月19日に万引きした明代を問い詰めて以来、何度も目の前で明代を見てきた女性店主が、9月1日に店先にやってきた明代を見間違えることは考えにくい。女性店主の証言は、朝木宅の電話発信記録と弟の証言とも矛盾しない。9月1日午後2時から3時ごろ、明代が東村山にいたのであれば、同じ時間帯に都内で弁護士と面会することは不可能ということになる。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第12回
矢野の説明に反する目撃談

 矢野と直子は万引き容疑について明代は最後まで闘うつもりだったと主張しているが、その説明とは相反する目撃談が3つあった。

 1つは、書類送検後、明代が万引き現場の洋品店の近くに自転車を止め、じっと洋品店の方を見ていたというものである。その顔は「般若のようだった」という。身に覚えがないのなら、淡々と戦う準備をすればいいのであって、当事者のところに行く必要があるとは思えない。その必要があるとすれば、謝罪して被害届を取り下げてもらうこと以外にはない。明代はこのとき、謝罪して早く楽になりたいという思いと、社会の非難を浴び、それまでの社会的地位も名誉も信用も、すべてを失った自分の姿をまざまざと思い浮かべていたのかもしれない。

 矢野と直子が弁護士に面会に行ったと説明する日の前日である8月31日には、印象的な2つの目撃談があった。取り調べ期日が決まり、明代は精神的に追い詰められ、自分を失いそうになっていたのではないかと思わせるものだった。1つは、明代が市役所付近でぼんやり自転車で走っていて市長の公用車にはねられそうになったということ。もう1つの情報は、それ以上により当時の明代の心中をうかがわせるものだった。明代は万引き事件でアリバイ工作に使ったレストラン「びっくりドンキー」に再び姿を見せていたのである。

 明代に気づいていた「びっくりドンキー」の店長によれば、「またレシートのことをいわれるのではないかと警戒していたが、結局、明代は食事をしただけで何も要求しなかった」。しかし、店長がレジで精算したとき、明代の顔は異様に青白かったという。「具合でも悪いんじゃないですか」と尋ねそうになったほどだったから、よく覚えていたのだと店長はいった。

 明代はこの日、矢野が書類送検後に「レギュラーランチ」からメニューを変更した「日替わりランチ」で、アリバイを証明するようなレシートがあるのかどうか確認したかったのだろう。藁にもすがる思いで。

 レジを担当したのはこれまで何度もレシートを要求した店長だった。しかし明代がもう何も要求しなかった。明代がレシートについて何もいわなかったのは、そもそも最初にアリバイを崩された「レギュラーランチ」のレシートが条件に合致した唯一のものだったこと、書類送検された7月12日にも店長にレシートを要求したものの、「ほかにはもうありませんよ」と強い口調で断られていたことを思い出したのだろうか。

 なにより、びっくりドンキーにアリバイを証明するレシートなどあるはずがないことは、万引き犯である明代自身が一番よく知っていた。仮に「日替わりランチ」のレシートをもらえたとしても、東村山署の取調室でアリバイを崩されたときと同じように、結局は自らの首を絞めることになることがよくわかっていたのだろう。

 このときの明代の姿は、どうみても矢野や直子がいうように、万引き犯の汚名を晴らそうと「決意を新たにしていた」人物のようにはとてもみえない。東村山署の取調室でアリバイを崩された明代の本心を推測すると、東京地検から出頭の具体的な期日が指定された時点で、来るべき時が来たと明代がわが身を悲観していたとしても不思議はない。

 8月31日、それほど異様な様子が目撃されていた明代が、いくら矢野がついていたからといって、まるで別人のように意気軒高になるものだろうか。9月1日午後7時までの明代の行動に関する事件当時の矢野の説明を聞いたとき、かなりの違和感がないではなかった。しかしその一方で、矢野の説明を覆す根拠もなく、またいかに矢野でもそこまで虚偽の説明はしないのではないかという思いがあった。

 拙著『民主主義汚染』では、9月1日午後7時までの明代の行動については矢野の説明に基づく記載をした。しかし、上記に関して、筆者の判断が誤りだったことがのちに判明したのだった。

9月1日の「明代の行動」に疑問

 矢野と直子によれば、朝木明代が東村山駅前のビルから転落した95年9月1日、明代は東京都庁に行って陳情書を提出したり、東京地検での取り調べに備えて弁護士と面会するなどいつもと変わらず元気だったという。そんな明代が自殺などするはずがないと。

 ところがその日、明代は東京都庁にも弁護士のところにも行かず、ずっと自宅に引きこもっていたとすればどうだろうか。9月1日、明代がずっと自宅にいたということになれば、矢野と直子の説明と「自殺するような様子はまったくなかった」とする主張は大きく揺らいでこよう。

 それだけではない。矢野と直子は事実でないと知りながら虚偽の説明をしたことになり、なぜその日の明代の行動に関して彼らが事実に反する説明をしたのかと、矢野と直子自身に対する疑念や不信感さえ生じてこよう。

 明代は9月1日、都庁には行っておらず、弁護士にも会いに行っていなかった可能性が高い。その根拠を説明する前に、その日、朝木の自宅には誰がいたのかを確認しておく必要がある。

 当時、千葉県松戸市のアパートに住んでいた直子は、『東村山の闇』において9月1日の朝木家の動きについて次のように記載している。

「その日の朝、私は松戸のアパートから母に電話した。……弟に車で迎えにきてもらうことを話し、そして松戸に会社のある父とおち合い、3人で食事をして帰ると伝えた。」

 この記載によれば、9月1日朝、直子が明代に電話した時点では、朝木の自宅にいたのは明代と弟の2人である。弟はその後車で松戸に向かい、直子と父親と合流することになっていた。

 したがって、矢野が説明するように、明代が12時過ぎに東京都庁に向かい、矢野とともに弁護士に会いに行ったのだとすれば、その後自宅にいたのは弟1人で、弟が松戸に出発したあとは朝木の自宅には誰もいなくなることになる。

 9月1日の明代の行動に関する矢野と直子の説明によれば、そうならなければ理屈が通らない。その点に異論はないだろう。

 ところが、明代が都庁に出発したと説明する後の時間帯に、矢野と直子の説明とは矛盾する証拠と証言が出てきたのである。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第11回
「気落ちした様子はなかった」という説明

 冷静な報道を行った一般紙に比べ、夕刊紙は積極的に矢野らの主張を取り上げた。9月3日付『夕刊フジ』は1面トップで「反創価学会東村山女性市議ナゾの死」「遺族は『他殺だ』」との見出しで「他殺」の可能性を匂わせる一方、それらの見出しよりもはるかに見えにくい位置、はるかに小さいフォントで「警察は『自殺』の見方」との見出しを付けていた。しかし、リード文に「東村山警察署は、自殺の線が強いとしているが」とあるのみで、本文には警察が自殺と見ている理由はいっさい記載されていなかった。転落現場で明代が救急車を断った事実も記載していなかった。

 同年9月5日付『夕刊フジ』、『日刊ゲンダイ』も事件を取り上げているが、どちらも矢野の言い分を記事の中心に据えていて、「自殺」とは断定できない多くの「状況証拠」があるかのような書き方になっていた。その「状況証拠」の中で共通しているのが、矢野が説明する「事務所の状況」だった。たとえば9月5日付『夕刊フジ』には次のような記載がある。

「(9月1日夜)朝木氏は高知県で行われる反創価学会市民グループの集会で講演を控えていたため事務所でレジュメを1人で作っていた。その日行動をともにしていた矢野氏が市内の高齢者施設建設に関する会合に出席するため、午後7時ごろ別れ、午後9時に事務所へ戻ってきてみると、姿を消していた。

『出るときはいつもクーラーや電気を消していくのにすべてつけっぱなし。ワープロも途中そのままになっている。高知に行くのも楽しみにし(ていた)』」

 事実かどうかは別にして、矢野が発信するこれらの具体性のある説明が一定の説得力を持ったことは事実なのではあるまいか。一部のマスコミは「明代には自殺するような様子はなかった」と受け止めたのかもしれなかった。

 上記のうち、「その日行動をともにしていた」というのは、9月3日付『朝日新聞』が記載した「1日午後は書類送検された窃盗容疑事件で弁護士と打ち合わせをした」とのことであると理解できる。これらの矢野の説明がいおうとしているのは、明代は万引き事件で書類送検されていたものの、いっさい気落ちした様子はなかったということだった。

 しかし、9月1日夜、明代はワープロでレジュメを作成いたというのだが、本当にそのような気力があったかどうか、そのことを疑わせる事実が数年後に明らかになった。そのことを判断するのに重要なカギを握るのは、9月1日夜までの明代の行動だった。

「9月1日の明代の行動」

 あらためて9月1日の明代の行動について確認しておこう。『東村山の闇』で直子は次のように記載している。



(『東村山の闇』に記載された9月1日の明代の行動①=直子の記載)

9月1日の朝、矢野さんと母は小坂さんとおち合い、都庁に「宗教法人法改正」の陳情を出しにいき、そのあと怪我をして入院している母の代理人の弁護士を訪ねて、『万引き捏造事件』に反撃するための打合せをしている。

――略――

筆者注=弁護士が明代に対して裁判になっても勝てるとの見方を伝えたとの趣旨の記載があり、続けて明代の「決意」が記載されている。)

 なるほどそうでしょう、これからが私たち『草の根』の反撃と真相究明の本番です。同じ「不起訴」でも、「起訴猶予」や「嫌疑不十分」では納得できない。はっきりと「嫌疑なし」にならなければ意味がないから、そうでなければ、逆に裁判でたたかうつもりです。この民主社会で、こんな謀略のようなことが警察も絡むようなやり方であってはならないはずです。と母は決意を新たにしていた。



 弁護士との面会前とそれ以後の明代の行動について、矢野も次のように記載している。



(『東村山の闇に記載された9月1日の明代の行動②=矢野の記載)

筆者注=矢野と明代は)昼過ぎの電車に乗り、都庁では、陳情の世話をしている小坂さんと一緒に都議会事務局に「宗教法人法及び関係税法の抜本改正を求める陳情」を提出した。入院している弁護士のところに立ち寄って、お見舞いを兼ね、打合せをした。新宿に戻った時は、時計はもう5時半をまわっていた。

 翌日は『すこやか昼食会』が終わった後、その足で、高知での「創価学会問題シンポジウム」に飛行機ででかける予定となっていた。

「講演原稿が仕上がっていないので、今日は「半徹夜」になるかもしれないので、ちょっと、早いけど、食べられるときに『夜ごはん』を食べておかない?」と彼女は提案し、会議に9時までかかる私も、同じ気持ちだった。西武新宿駅に向かう途中の地下で夕飯を済ませ、「事務所」にかえりついたのは7時前になっていた。



 95年9月1日、明代は昼過ぎから午後7時までいつもと変わらず元気に活動していたのだと、矢野も直子も説明している。この点は9月2日付け『朝日新聞』や『東京新聞』、さらにはこれまで紹介した夕刊紙の記載と同じである。弁護士に会いにいったというのは、万引き事件で東京地検から「9月5日に出頭するよう」呼び出しがあったからだと理解できた。

 矢野と直子の上記の説明はきわめて具体的であり、それを読むかぎりでは説得力があるように思える。そこまで作り話をする者はいないだろうと考えるのが普通の感覚でもあろう。ところがその後、上記の説明そのものが虚構だったのではないかと思わせる事実が判明したのだった。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第10回
直子が変化したきっかけ

 矢野は95年9月1日午後11時11分、同午後10時33分と同じ局番の電話番号に電話をかけている。その通話時間は6分12秒と比較的長い。この電話もまた直子にかけたものであり、その内容は「明代は何者かによって拉致された」とする趣旨のものだったのではないか――。そう推測させるのが「11時過ぎから直子は『母は拉致されたようだ』」といい始めたという弟の証言である。

 直子が午後11時過ぎになってそれまでいっていなかったことをいい始めたということは、明代に関する直子の認識にそのころなんらかの変化、きっかけがあったということである。その内容も、たんに母親の身を案じていただけだった直子が急に「母親は拉致されたようだ」といい始めたというのだから、天と地ほどの違いである。家にずっといた直子に、外部からの情報あるいは働きかけが何もないまま、これほど大きな認識の変化が生じるとは考えられない。

 直子の認識を大きく変化させた原因は何だったのか。それが、午後11時11分に矢野からかかってきた電話だったのではないか。そう推測しても、それほど突飛とはいえないだろう。

 その電話によって、「明代は何者かに拉致された」という共通認識が矢野と直子の間に出来上がったと考えれば、矢野がマスコミに配布したメモに「2時30分ころ 不審車と朝木がつれさられたと110番」と記載されたことも納得がいく。「拉致された」という共通認識があったことで、何でもない駐車車両が「不審車」となり、「拉致」に関係ある車として扱われたということだろう。少なくともこの時点で、直子が「母は拉致された」と認識していた(本気かどうかは定かではない)ことは事実であり、弟の証言がほぼ裏付けられる。

 95年9月1日午後10時30分、直子から「東村山署に母の安否を確認してほしい」とする電話を受けた矢野は、東村山署には連絡せず、同10時33分、直子には東村山署に連絡したと偽って「何も情報は入っていない」と報告した。それから1時間もしないうちに、矢野と直子の間では「明代は何者かに拉致された」という共通認識が出来上がっていた。この事実から類推できるのは、この短時間のうちに矢野が「明代は何者かに拉致された」というストーリーを作出したということである。

大きな賭け

 9月2日、矢野がマスコミに配布した「朝木明代殺人事件の経過」と題するメモには、「明代は拉致された」という文言は出てこない。しかし、文書に出てくる「殺人事件」、「突き落とされる」「不審車と朝木がつれさられたと110番」の文言がマスコミの注目を集めることは間違いなかっただろう。

 メモの内容はどうみても「事件性は薄い」とする東村山署の判断とは真っ向から対立する内容であり、当然、記者会見では上記の文言に関して質問があるだろうことは予測できた。矢野にはとりわけ「突き落とされる」とする文言に関して、マスコミに配布したメモ以上の、説得力のある説明が要求されるだろう。はたして矢野の主張はマスコミにどう受け止められるのか。矢野にとっては大きな賭けだったのではあるまいか。

恐るべき特異性

 9月2日付け全国紙夕刊や9月3日付全国紙朝刊の記事をみると、「明代が万引きで書類送検されていたこと」、「救急車を断ったこと」など、東村山署の広報に基づいて全体として「自殺」ではないかと事実を冷静に伝えている。「矢野市議の話」を比較的丁寧に取り上げたのは9月3日付『朝日新聞』と「自殺するはずない」とする関係者の声を見出しに掲げた同日付『東京新聞』である。

『朝日新聞』は「矢野市議によると」として、9月1日の明代の行動を次のように伝えている。

「1日午後は書類送検された窃盗容疑事件で弁護士と打ち合わせをしたあと、7時前(筆者注=19時前)、東村山市内の事務所に2人で行った。矢野氏が外出し、9時過ぎに戻ると朝木氏の姿はなかった。」

 この記事の後段部分は、部分的には事実である(「部分的」というのは、矢野がそれ以後、明代が転落死するまでの間に明代とは会っていないという証拠はないということである)。前段は、明代が「自殺するような雰囲気はなかった」と印象付けようとするものと思うが、それが事実であることを裏付ける証拠はない。

『東京新聞』の「矢野市議の話による」記事はかなり詳細である。

「1日午後9時すぎに矢野市議が同市本町の事務所に帰ってきた時、朝木市議のワープロはふたが開き原稿が書きかけの状態で、部屋のクーラーもつけっぱなし。朝木市議からは午後9時15分ごろ『ちょっと気分が悪いので少し休んでから(事務所へ)行きます』と元気のない声で電話が入ったきり連絡が途絶えたという。

 矢野市議によると、朝木市議は3日に高知市で講演するため2日夕には出発する予定だったという。矢野市議は『自殺する気配など全くなかった。殺人事件ではないか』と話している。」

「自殺する気配など全くなかった。殺人事件ではないか」とする矢野のコメントを生のまま掲載している点に違和感を覚える。『東京新聞』はさらに「自殺などするはずがない」とする明代の「後援者」のコメントと、議席譲渡事件以来草の根市民クラブを批判していた市民の「逃げ場がなくなったのだろう」とするコメントを併せて掲載している。『東京新聞』は最後に「自殺」を肯定する市民のコメントを掲載してバランスを取ったが、一般紙としてはめずらしく全体として「自殺」を否定する印象が強い記事である。

 東京新聞の当時の記事に論評を加える意図はないが、矢野が事務所に戻ってきたときの室内の状況を、矢野が主張するまま、この時点でここまで詳細に取り上げる必要があったのだろうか。矢野のこの説明が、「自殺するはずがない」ことを主張しようとするものであることを記者は感じたはずである。その上で記事化する判断をしたということだろう。

 この『東京新聞』と『朝日新聞』の記事は9月2日に取材したものだから、矢野には記者会見の時点でマスコミに配布したメモ以上の詳細なストーリーが出来上がっていたということになろう。恐るべき特異性というべきである。

 だが、それ以上に恐ろしいと痛感させられるのは、明代は万引き事件で書類送検されていた事実があり、東村山署が転落現場の入念な捜査と司法解剖までした結果として「事件性は薄い」と発表しているにもかかわらず、それでもなお矢野が、最終的に「自殺」を否定する状況説明をいっさいの疑いも差し挟まない形で一般紙にまで掲載させたということではないだろうか。もちろん、記者会見に集まった記者たちは、東村山署による事務所への立ち入り調査を矢野が拒否した事実など知る由もなかった。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第9回
警視総監にも報告 

 矢野が行政解剖を拒否したことで急遽行われることになった司法解剖は午後から慈恵医大病院で行われた。解剖所見によれば、死因は多発性肋骨骨折、肺損傷、左右腓骨骨折および左脛骨骨折等に基づく出血性ショックによると判断された。

 アルコール、毒物、薬物の検査も行われたが、いずれの反応もなかった。薬物、毒物の反応がないということは、他人が薬物等を使用して転落させたとする仮説を否定するものであるといえた。つまり、これらの解剖結果は、それまでに行われた検死、捜査結果と矛盾しないものだった。司法解剖には警察官が立ち会っており、解剖所見が報告された(同年9月4日には同日付「解剖立会報告書」としてまとめられている)。

 司法解剖を終えた時点で、東村山署はマスコミに対してあらためて明代の転落死に関する発表を行った。マスコミの注目は事件性があるのかないのかという点に尽きた。これに対する東村山署の結論は「現場の状況、関係者からの聴取及び検死の結果等から事件性は薄いと認められる」というものだった。

「事件性が薄い」とは「事故あるいは自殺」ということになろう。東村山市議である朝木明代が、夜の10時に駅前のマンション5階まで行き、手すりを越えて転落するという事故は、通常では考えられない。したがって、「事件性が薄い」とは「自殺の可能性が高い」と結論付けたに等しい。

 この東村山署の結論は、警視総監、副総監など警視庁幹部にも報告された。警視庁上層部から東村山署に対して異論は出ていない。警視庁として東村山署の結論を承認したということと理解できる。

警察の見解とは異なる主張

 一方、同年9月2日午後、矢野は草の根事務所で記者会見を開き、マスコミに対して「朝木明代殺人事件の経過」と題するワープロ打ちのメモを配布していた。時系列で記載されたメモの中には「22時ころ 突き落とされる」の文言と、「22時40分ころ 東村山署に『朝木が行方不明状態、情報はないか』」との電話をかけたとする記載、さらに「23時ころ 119番に朝木搬送はなかったか確認の電話」、「23時~24時 病院に直接確認(出向く又は電話で)」との記載があった。

 検死と現場検証の結果に基づき、副署長の千葉が口頭で「事件性は薄い」とする見解を発表したのに対し、矢野はどんな根拠があったのか「他殺」を主張していた。その上、東村山署に「明代が行方不明になっている」との電話をかけた時間は9月2日午前0時30分ではなく「9月1日22時40分ころ」に改ざんされ、裏付けのない「確認の電話」をしたことになっていた。

 時系列のメモの最後の項目として記載されていたのは、「2時30分ころ 不審車と朝木がつれさられたと110番」の文言だった。ここで矢野がいう「不審車」とは、ただ飲み屋の女性を待っていただけだったことがのちに判明する。しかしもちろん、このメモを渡されたマスコミはその場で事実を確認することはできないから、取り上げるかどうかは別にして、とりあえずは矢野の主張を聞いておくしかなかった。

 このメモの行間からは、明代が「ビルから突き落とされ」たこと、矢野らは警察や病院に問い合わせをするなど可能な限りの努力をして明代の身を案じていたこと、どうやら「明代は不審車の人物かその仲間によって連れ去られたらしい」というストーリーを読み取ることができた。私が確認した範囲では、これが形として残る矢野による「他殺説」の始まりだった。

不可解な矢野の対応

 この中で、客観的事実として認められるのは、「2時30分ころ 不審車と朝木がつれさられたと110番」したことだけで、その110番の中身さえ矢野がそう訴えているにすぎない。「22時ころ 突き落とされる」の文言に信憑性を与える事実として加えたのだろうと推測できる。

 時系列でみると、メモの中に出てくる「事実」としてはこれが最後だから、矢野は少なくとも95年9月2日2時30分以降にこのメモのストーリーを考えたことになる。正確には「ストーリーを完成させた」といった方がいいのだろうか。

 そう思わせる証言があった。9月1日夜の11時ごろに帰宅した直子の弟は、「病院を探した」と主張する直子が実際にはずっと家にいたと証言しているが、当夜の直子の様子に関してもう1つ興味深い証言をしている。直子はしばらくすると「母は拉致されたようだ」といい始めたというのである。

 矢野がいた草の根事務所の電話発信記録に、弟の証言との関連性をうかがわせる記録が存在していた。直子は同日午後10時30分ちょうどに自宅から事務所の矢野に電話をかけ、東村山署に明代の安否を確認してくれるよう依頼している。同10時33分に事務所からの発信記録がある。矢野と直子によれば、矢野が東村山署に安否確認をしたときの発信記録だという。しかし現実には、東村山署には日付の替わった9月2日0時30分に矢野から電話がかかった記録があるだけである。

 直子は矢野に東村山署に電話するよう依頼したあと、矢野から「警察には何も情報は入っていない」とする連絡を受けたというが、それが何時だったについてはなぜか明言していない。この点と、矢野が東村山署に実際に電話した時刻について嘘をついている事実、すなわち矢野は9月1日午後10時33分には東村山署には電話していない事実を総合すれば、草の根事務所の午後10時33分の発信記録は、東村山署ではなく直子にかけたものだったとみるのが合理的である。

 その通話時間は2分弱で、矢野が東村山署に問い合わせをしたことにして直子にその結果を報告したものだとすれば妥当な時間といえるだろう。一方、これが東村山署に問い合わせたものだとすれば、市議会議員が「行方不明状態にある。何か情報は入っていないか」という内容の重大性からすれば、当然、対応した警察官も何か情報が入っていないか署内に確認するだろうから、2分弱で通話が終わるとは考えにくい。

 矢野が理由もなく東村山署には電話せず、直子に対しては警察に電話したことにし、その上「警察には何も情報は入っていない」と虚偽の報告をすることはあり得ない。矢野はこの時点で明代に関する何か重大な事実を知っていたがゆえに、東村山署には問い合わせの電話をせず、直子に虚偽の報告をしたということではないのだろうか。

 草の根事務所の電話発信記録には、それから約40分後の午後11時11分、午後10時33分と同じ局番の電話番号に発信した記録があった。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第8回
靴に関する情報

 95年9月2日、初動捜査を終えた時点で、集まっていた報道陣に対して副署長の千葉が「事件、事故の両面でから捜査中である」とし、「今後は不明の靴やカギの発見、目撃者の発見等事実解明のため所要の捜査を行う」と付け加えた会見内容のうち、「不明の靴やカギ」と具体的な捜索内容を挙げたのは、矢野が「殺された」と騒ぎ、「靴がない、カギがない」と訴えていたからだった。

 明代が履いていたストッキングは足の裏が汚れ、破れていたから、どこから来たのかは明らかでないものの、明代が現場まで靴を履かずに歩いてきたと推測しても不合理とはいえなかった。現場に遺留品にはバッグもなかったから、明代がカギを持っていなくても特に不審な状況ではない。カギはバッグに入ったままだったとしてもなんら不思議はないのである。

 実はそのころ、千葉の元にはある新聞記者から靴に関する興味深い情報がもたらされていた。以前喫茶店だった物件を借りていた草の根事務所は、1階にはテーブルや椅子を置いていて、2階を事務所として使用しており、2階は靴を脱いで上がるようにして使っていた。9月2日早朝、明代の転落死情報を聞きつけて事務所に取材に行った記者によれば、「2階の入り口に女性ものの靴が一足、脱いだままの状態で置かれていた」というのだった。それが明代の靴だったとすれば、明代は草の根事務所から転落現場まで裸足で歩いてきたとする推測が成立する。

矢野と夫が立ち入りを拒否

 そのような予断はともかく、本来明代の所有物である靴とカギを探すにあたり、転落現場以外に草の根事務所と明代の自宅が捜索対象となったのは当然である。ところが、千葉によれば、この2カ所については調査がされていなかった。なぜなのか。千葉は東京地裁で次のように証言している。



(草の根事務所と自宅の調査に関する千葉の証言)

東京都代理人
  (筆者注=矢野と直子が「なくなった」と主張する靴とカギについて)どこか探さない場所があったんじゃないですか。

千葉  はい。事件現場と原告らが主張します事務所、それから朝木さんの自宅、この2カ所については調査がされておりません。(筆者注=矢野は当初、「明代は事務所から誘い出されて拉致され、自宅に監禁されたのち、ビルから転落させられた」と主張していた)

代理人  どうしてですか。

千葉  拒否されました。(筆者注=このとき、原告席にいた直子がすかさず「ウソをつくな」と千葉を非難した)

代理人  最も靴だとかカギが残っていそうな、明代さんが当時勤めていた事務所、それから自宅、こういったものについて見せてくれといったんだけども拒否されたと、こういうことですね。

千葉  はい。

代理人  だれが拒否したんですか。

千葉  事務所については原告矢野さんだと聞いておりますし、自宅については亡くなられたご主人であります大統さんと聞いております。

代理人  大統さんが断ったということですね。

千葉  はい。

代理人  それでは、いろいろ、そういったものを捜すにあたって、その当時履いていた靴とかカギの特徴、こういったものは聞いたんでしょうか。

千葉  協力を得られませんでした。わからないという話でした。



 靴とカギが現場にないのはおかしいというのなら、現場から歩いても3分もかからない事務所、あるいは現場から5分以内で行ける自宅を捜すことはきわめて自然だろう。仮に警察が事務所と自宅を捜索する気がないようなら、矢野はむしろ自ら捜索するよう要請してもおかしくない。ところが、「ないのはおかしい」と訴えている矢野や遺族が、調査してしかるべき場所への立ち入りを矢野と大統が拒否したというのである。司法解剖を求めてまで真相を追及しようとしていたはずの矢野と大統は、なぜ事務所と自宅に対する警察の立ち入り調査を拒否したのだろう。

 真相を究明したいのなら、この対応は不可解というほかない。不可解どころか、事務所と自宅の調査を拒否した彼らの対応は、非協力的を超えてもはや何かを隠そうとしていたように思えてならない。

 仮に捜査員が矢野の態度から不自然なものを感じ取ったとしても、明らかな刑事事件(殺人事件)でない以上、強制捜索を行うことはできない。あくまで任意の調査であり、警察の立ち入りを拒否できることを矢野は知っていたのである。だからといって、警察の調査を拒否することはないと思われるが、いったいどんな理由があったのだろうか。

直子の大声の意味

 直子が「ウソをつくな」と非難したのは、千葉の証言が、本来なら捜査に協力すべきであるはずの矢野と大統が、表面上は真相究明を訴えていながら、その言葉とは裏腹に「事務所と自宅への立ち入り調査を拒否したこと」に言及した箇所である点に注目すべきである。

 東村山署が転落現場で発見されなかった明代の靴とカギを捜すために、残されている可能性のある場所として事務所と自宅を想定するのは当然であり、調査に行かないはずはない。しかし、東村山署は事務所と自宅については調査することができなかった。

 その点については、直子はまったく反応しなかった。直子も警察が事務所と自宅には立ち入り調査をしていないことを知っているから、黙って聞いていたのだろう。ここまでならまだ我慢できた。

 もちろん直子は、警察が立ち入り調査をしていない理由も知っていただろう。しかし、「矢野と大統が立ち入りを拒否した」という事実が明らかにされることは、都合のいいことではないと認識していたということのようだった。これが世間に知られれば、真相究明を求めているはずの矢野が、なぜ警察の立ち入り調査を拒否したのかとの疑念を持たれることになりかねない。むしろ矢野は真相を隠そうとしていたのではないか、と。直子が千葉の証言中に大声を出したのは、真相を隠したかった矢野の本心を知られたくないという思いからだったように思えてならない。

 矢野が事務所の調査を拒否したことと関係があるのかどうか、9月2日早朝、女性ものの靴が脱ぎ捨てられているのを目撃した記者が、次に草の根事務所に行ったときにはもうその靴はなくなっており、記者が見た靴が誰のものだったのか、確認することはかなわなかった。記者が見た靴がなくなったということは、靴が実際にあったという事実自体を確認することができなくなったということでもあった。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第7回
「犯罪性」がないとした理由

 検察官と本部検死官が明代の遺体を検死した結果、「犯罪性はない」と結論付けた理由は以下のとおりだった。



(検死結果)

①着衣に第三者と争ってできたような破れ、ほころび、ボタンが飛んでいるというようなことがない。

②遺体に、他人と争ってできるような変色、皮膚剥離等、防御創と認められる創傷がない。

③頸部に損傷、圧迫痕等がなく、溢血点もない。

④左右上腕、前腕、手指等に他人からつかまれたような変色痕はない。

⑤左右の手、爪にも損傷はない。

⑥着衣、身体に、手すりを無理やり越えさせたような擦過はない。

(以上の検死結果に基づく判断)

①嫌がる者をつかまえて、手すりを越えて転落させるには、着衣に損傷、汚れ、身体に変色表皮剥脱等ができるが、それがないことは、他人が突き落としたことが否定される。

②転落位置のフェンスや換気口の損傷状況と、遺体の創傷の間に矛盾がない。



 東村山署から「朝木先生が亡くなったかもしれない」との一報を受けて東村山署に来た矢野は、明代の遺体を確認する前から「殺されたんだ」とわめき、一方では明代の姉妹らしき女性が「あなたがついていてどうしたの」と矢野をなじっている声も聞こえたという。明代の身内から非難されたことも手伝ってか、矢野は身元確認後も刑事に向かって「これは他殺だ」と主張していた。しかし、検死の結果からは、明代が何者かに殺されたと判断できるような点は発見できなかったのである。

現場の鑑識状況

 転落現場の捜査は、95年9月2日午前7時ごろから警察犬を投入しての現場鑑識活動、現場付近の聞き込み等を開始、検索活動は同日夜にかけて継続的に実施された。

 転落現場の捜査結果は以下のとおりだった。



(転落現場の状況)

①明代が倒れていた場所の真上に位置するマンション5階の手すりに、手指のものとみられる跡が3カ所ついていた。

②その指先は階段方向(マンション側)に向いていた。

③手指跡のある手すりのマンション側には擦過痕などはついていない。

④その他の場所にも擦過痕は発見できなかった。

(上記の捜査結果に基づく判断)

①5階の手すりに手指の跡があり、1階から4階までの他の手すりには痕跡がないことは、5階の手すり上から転落したものと推定できる。

②他人から突き落とされたとすれば、助けを求めるなど騒ぐはずだが、そのような声や物音を聞いた者はいない。

③手指の跡が3カ所あることは、他人から抱き上げられたことが否定される。

④5階手すりの建物側に擦過痕等がないことは、他人と争った状況にはなかったことが推定される。

⑤明代は手指の跡のあった手すりのほぼ真下に落下したと推定され、他人が突き落としたとすれば、ビルから離れた場所に落下するはずである。



 転落現場の鑑識捜査の結果、明代の転落死に他人が介在した状況を確認することはできなかった。

聞き込みの状況

 周辺の聞き込み状況や事情聴取の結果は以下のとおりだった。



(聞き込みと事情聴取の結果)

①現場マンション5階居住者
「午後10時ごろ、部屋で洗濯をしている際、『キャー』という悲鳴に続いて『ドスン』という大きな物音が聞こえてきた。交通事故かと思ってあわてて外を見たが、外は特に変わった様子はなかった。しばらくして救急車が来たのでけが人が出ていることを知り、マンション5階をくまなく見たが、付近に遺留品等は何もなかった」

②転落現場付近の住人
「午後10時ごろ、駐車場方向から『ドスン』という音が聞こえてきたので、交通事故かと思い外を確認したが、そのような事実はなかった」

③倒れている明代を発見したモスバーガー店長
「午後8時ごろに仕事を終え、10時ごろまで同マンション3階にある事務所で伝票整理をしていた。この間、人の争うような声などは聞いていない」

「午後10時30分ごろ、段ボールを捨てにゴミ置き場に行くと、仰向けの状態で倒れている女性を発見した。『大丈夫ですか』と何度も声をかけたが、女性はそのつど『大丈夫です』とはっきりした声で答えた。『落ちたのですか』と尋ねたところ、女性は『違う』と答えた」

④アルバイト店員
「倒れている女性に対し、『救急者を呼びましょうか』と尋ねたところ、『いいです』と断られた。女性は話しかけられるのを嫌がっているように感じられた」



 マンション住人らに対する聞き込みの結果からは、明代の転落死に第三者は介在していないことが推定できた。

 モスバーガー店長や店員の証言からは、発見当初、明代はまだ意識がはっきりしていたことがうかがえる。仮に明代が何者かに突き落とされたのだとすればまず最初に被害を訴えるはずだが、明代から被害を訴える言葉はなく、救急車も断っていることからすれば、犯罪性はないと判断できた。

 なお、明代は靴を履いておらず、ストッキングの足の裏が破れていた。転落現場から靴が発見されなかったことから、明代はどこかから現場マンションまで歩いてきたものと推測できた。そこで、明代がどのような経路で現場マンションまで歩いてきたのか、捜査では警察犬に追跡させようと試みたが、最初に嗅がせた血の原臭が強すぎたためか、臭跡をたどることはできなかった。

通知されていた出頭期日

 上記の初動捜査と検死の結果をふまえて、千葉、検察官、検死官、本部、刑事課長を交えて討議した結果、東村山署は明代の転落死について「犯罪性は薄い」と判断していた。ただ、初動捜査を終えた時点で記者会見した東村山署は、千葉が口頭で「朝木明代がロックケープハイムビルから墜落し、9月2日午前1時、収容先の病院で死亡した」こと、「事件、事故の両面から捜査中である」と発表するに留めた。まだ初動の段階であり、司法解剖もまだだったからである。また、「今後は不明の靴やカギの発見、目撃者の発見等事実解明のため所要の捜査を行う」とした。

「犯罪性」が薄いということは自殺の可能性が高いということである。自殺とすれば動機は何なのか。やはり、万引き容疑で書類送検されたことと関係があるのだろうか。検死のあと、千葉は検察官から、明代にはすでに取り調べの出頭日時を通知していたこと、その期日が同年9月5日だったことを知らされた。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第6回
矢野からの電話で認知

 明代の転落現場の現場検証は95年9月2日午前7時ごろから始まるが、東村山署内では転落した遺体が明代なのかどうか、遺族による確認などの手続きが行われた。身元確認は遺族や関係者しかできないのである。

 身元確認をするには遺族に連絡を取る必要がある。通常は所持品などの手がかりを頼りに警察の方から遺族にするのだが、明代の場合には別の経緯によって遺族に情報が伝わったようである。

 東村山署が東村山駅前のビルから転落し、死亡した女性が明代かもしれないと認識した経緯についてあらためて振り返っておこう。

 95年9月1日午後10時40分、東村山駅前交番から「駅前のビルで重傷の女性。身元は不明」との通報。9月2日午前0時30分、矢野から刑事課に「朝木明代議員が昨夜の9時過ぎから行方不明になっている」との電話が入ったことで、東村山署は昨夜に通報のあった女性が明代の可能性があると判断し、明代の顔を知る刑事が現場に向かった。

 通報から2時間近くがたっており、現場はすでに救急隊が女性を防衛医大に搬送したあとだった。このため刑事は交番に立ち寄り、通報した巡査から発見当時の状況を聴取した。刑事は、ハンバーガー店の女性アルバイト店員が女性に「大丈夫ですか」と聞くと「大丈夫です」と答え、「救急車を呼びましょうか」と聞くと「いいです」と断ったこと、また発見者から話しかけられるのがいやそうな様子だったことなどを確認。刑事は明代が万引き事件でアリバイを主張したものの、それが崩され、書類送検されたことをよく知ってもいたから、明代は「自殺をはかったようだ」との感触を持った。

 刑事は9月2日午前1時過ぎに防衛医大に到着。明代が死亡したことを確認すると、副署長の千葉に連絡し、千葉はただちに東村山署に向かった。

 防衛医大で遺体の縫合等が終わったあと、刑事は葬儀社に棺を手配し、遺体を東村山署に運んだ。不審死の場合は検死が必要で、いったんは警察署に運ぶ必要がある。その場合、遺体をそのまま運ぶわけにはいかない。遺体に敬意を払うという趣旨もあり、死亡場所から検死を行う場所まで遺体を棺に入れて運ぶのはごく普通のことである。

再び矢野からの電話

 明代の遺体が東村山署に向けて出発したあとの午前2時30分ごろ、再び矢野から東村山署に通報があった。

「朝木の自宅前に不審な車が停まっている。朝木の行方不明と関係があるかもしれない。すぐに来てほしい」

 のちに、この車の主は、飲み屋の女性を待っていただけで、明代とは何の関係もないことが判明しているが、矢野から電話を受けた当直の警察官は、矢野にこう伝えた。

「矢野先生ですか。昨夜11時すぎに防衛医大に運ばれて亡くなった女性がいます。朝木先生かもしれないので署まで来てください」

 明代の遺体が東村山署に到着したのは午前3時過ぎだった。

 変死の場合、遺族による身元確認と遺体の引き渡しは死体検案のあととなる。死体検案とは警察医による死因の確認作業で、自殺他殺の判断を含む。よって、検案前に遺族に引き渡せば、遺体に手を加えられる可能性がないとはいえないからだった。午前4時過ぎから警察医による死体の検案が行われ、千葉も立ち会った。死体検案書には「直接死因」として「出血性ショック死」と記載され、自殺他殺の判断はなされていない。

 遺族による身元確認は午前5時から約10分間、明代の夫である朝木大統、直子、直子の妹と弟、それに矢野、遺族関係者によって行われ、遺体が明代であることが確認された。このときはじめて、「明代が東駅前ビルから転落し、死亡した」との事実が確定したのだった。

遺族が司法解剖を強く希望

 通常、不審死の場合でも、明らかに事件性がないと判断される場合には、遺体の解剖は行わない。明代の場合も、発見時に被害を訴える言葉がなかったこと、救急車を断ったこと、防御創など他人と争ってできたと思われる創傷がなかったことなどから、東村山署は「自殺」と判断しており、解剖の必要性を認めていなかった。

 ところが、遺族は解剖を強く希望して譲らなかった。このため東村山署は任意の行政解剖を行う判断をしたが、遺族が「聖マリアンナ医科大病院で解剖してほしい」などと言い出した。遺族が希望する病院で解剖を行った場合、中立性が損なわれる可能性がないとはいえなくなる。

 このため東村山署は検察官の判断を仰ぎ、強制力を持つ司法解剖に切り換えざるを得なかった。司法解剖なら、正確性を期するため、検察官は遺族の要望によるのではなく、検察官の判断で信用と実績のある医師に解剖を依頼することができるのである。

 司法解剖は検察官が裁判所に司法解剖申請を行い、裁判官が必要と認めて許可を出した場合にのみ可能となる。明代の司法解剖は「殺人被疑事件」として行われたが、「事件性なし」では裁判所から解剖許可は下りない。このためやむなく、検事は「殺人被疑事件」として申請書を提出することにした。

検察官による検死の判断

 司法解剖に先立って、午前7時過ぎからは検事および千葉の要請によって警視庁本部から派遣された検死官による検死が行われた。警察医による死体検案と異なるのは、検死は検事が遺体を見ることによって犯罪性の有無(死因ではなく)を判断するものであるという点である。

 通常の変死の場合だと、検死は担当刑事と警察医によって行われ(代行検死)、警察署上層部にその報告がなされて終了となることが多い。しかし明代のケースでは、千葉は事後にどのような事態に発展するかわからないと判断し、検察官と本部検死官の立ち合いを要請し、万全を期したのだった。

 検死が始まった時間帯には転落現場の鑑識活動も行われた。検察官は現場の状況と遺体の状態を照らし合わせて判断を行った。その結果、検察官が下した結論は「犯罪性はない」というものだった。

(つづく)
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