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著書紹介

民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒

『民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒』(ユニコン企画発行、長崎出版発売、1200円+税)

現在の“東村山の闇”の原点である議席譲渡事件と女性市議転落死事故についてのルポルタージュ。今は絶版となっていて書店では買えないが、手元に在庫があるので、希望の方はこちらにメールしてください。書籍代+送料でお分けいたします。

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朝木明代転落死・鍵隠蔽事件 第1回
真相究明につながる可能性

 平成7年9月1日に発生した東村山市議(=当時)朝木明代の(万引きを苦にした)自殺をめぐり、現東村山市議の矢野穂積と朝木直子(いずれも「草の根市民クラブ」)は「自殺ではなく他殺」あるいは「明代は政治的に対立する勢力(創価学会・公明党)によって謀殺されたのだ」と、事件性を否定する東村山署とは真っ向から対立する主張を展開していた。その根拠の1つが、「明代が所持していたはずの事務所の鍵(鍵束)が9月2日の現場検証の際に発見されず、翌日になって現場ビルの2階で発見されたこと」だった。

「明代が持っていたはず」と矢野と朝木がいう鍵は、現場検証の翌日に転落したビル2階の焼肉店員がおしぼりケースの中から発見。9月4日午前1時に東村山署に届け出ている。鍵の発見状況は偶然落としたというようなものでなく、何らかの意図をもって置かれなければあり得ない状態だったと東村山署は判断している。

 事件発生直後の現場検証で発見されなかったということは、現場検証の終了後に何者かが置いた可能性が高い。それが誰であれ、鍵の存在を隠す意図なら、現場ビルなどに置く必要はない。鍵を置いたのは誰で、目的は何だったのか。その真相究明につながる可能性を秘めた裁判が7月1日に始まる。

「主権回復を目指す会」代表の西村修平を提訴していた裁判で東村山警察署元副署長千葉英司は、この鍵がおしぼりの間から発見されたことを明らかにした上で、「鍵は警察犬を導入した現場検証の終了後に置かれた可能性がある」と述べた。西村の主張のいっさいを支援していた矢野はウェブ版「東村山市民新聞」で次のように反論した。



(記事1)

決定的事実がついに判明! ★副署長チバが、「自殺説」を自ら全面的に否定! そして「何者が何の目的で置いたか解明できていないが警察犬が帰った後に朝木明代議員の鍵束が置かれた可能性がある」(チバ陳述書)などとヌケヌケ言っているが、解明できるはずがないのだ! 唯一最大の殺害犯に直結する物証(鍵束)を、わずか1週間で単なる「遺失物」扱いで遺族に返している!捜査をする意思のなかった何よりの証拠だ。
……
 なぜ副署長チバは、捜査をしなかったか!? ……副署長チバ、もう逃げ口上は無理なのだよ。

(記事2)

元副署長チバが、決定的事実を認める!  ★「警察犬が帰った後に朝木明代議員の鍵束が置かれた可能性がある」(チバ)⇒チバ「自殺説」を自ら全面的に否定! ★決定的事実を知りながら、なぜ、今まで一度も公表しなかったか !! ⇒ 証拠事実の隠匿は明らか!  ★やはり知っていた! ⇒「自殺説」を木っ端微塵にし、高裁7民判決も吹き飛ばし、殺害事件を決定付けた重大自白。▼副署長チバは、捜査責任者として詳細を全面自供し事実隠匿の責任をとりなさい! ▼警察内部からの事件捜査関係者の告発を、強く呼びかけます。



 これに対して千葉は平成23年5月13日提訴した。千葉は訴状で、「本件記事は、捜査責任者である原告が、亡明代殺害の証拠である鍵束を発見した事実を隠匿したとの事実を摘示し」、読者に対し事実を隠匿したかのような印象を与えたなどとして、矢野と朝木に対し140万円の支払いと上記記事の削除を求めている。
 
 矢野の記事を一読して理解することは難しいが、全体として「千葉は証拠事実を隠匿した」「千葉は自殺説を自ら否定した」といいたいのだろう。裁判で矢野は「千葉が他殺の証拠を隠匿した事実」を立証しなければならないと思うが、答弁書はまだ提出されていない。

 ちなみに最後の「警察内部からの告発」は「行動する保守」Aに対するリップサービスだろうか。そもそも「内部告発」なるものの内容自体、平成8年に矢野が週刊誌にコメントした内容と酷似しており、たんに矢野が投げたものが何人もの口(幾重もの伝聞)を経由して戻ってきただけという可能性もあると私はみている。少なくとも「行動する保守」Aは、「内部告発」なるものが「伝聞の伝聞」であることを認めている。通常の社会では誰もまともにとりあわない代物である。

 いずれにしても、「千葉が証拠事実を隠匿した」という事実について矢野と朝木がどう立証していくのか、注目したい。

デマを認めた宗教評論家

 余談だが、平成23年6月13日、宗教評論家の丸山照雄が死去した。自民党(当時)の亀井静香を中心として組織され、矢野が宣伝した「創価学会疑惑」を政争の具として最大限に利用した「四月会」に深く関わっていた人物である。平成8年の衆院選後、私はある人物の通夜の席で丸山と二言三言言葉を交わす機会があった。

 当時、私は月刊誌の編集者として朝木の転落死事件について取材を続けていた。丸山をみかけた私は、またとない機会なので丸山に近づき、名刺を差し出した。すると丸山は「ほほーっ、あの」と目を丸くして大げさに驚いた。「あの」とは私が月刊誌で書いた記事などのことを指していることは明らかだった。四月会にとって、私は敵だったはずである。

 衆院選前には四月会が全国で展開していた宗教と政治に関するシンポジウムを取材し、記事にしたことがあった。そのシンポジウムに丸山もパネラーとして登壇していた。その号は四月会から直接注文があった。丸山はおそらくその記事にも目を通していたにちがいない。しかしそのとき、丸山から記事に対する反論は一言もなかった。

 丸山との短い会話の中でもとりわけ印象に残っているやりとりがあった。私は丸山に次のように聞いた。

「四月会は今後も、朝木明代は創価学会に殺されたと宣伝するんですか?」

 すると、丸山はこう答えた。

「いやあ、もうしませんよ」

「もうしません」とは、四月会すなわち自民党が朝木事件を政争の具として使ったということにほかならなかった。平成8年の衆院選で十分に目的を達した自民党はもう朝木事件などに用はないのだった。

 丸山ら四月会が東村山デマの表舞台から退いて15年近くになる。ところが、四月会のようにある明確な意図をもってデマの拡大・浸透に大きく寄与した者が手を引いても、今度は「行動する保守」一行のように単純にデマを妄信する者が出現することもある。デマだけが生き延びるとは恐ろしいことではあるまいか。

(つづく)

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朝木明代転落死・鍵隠蔽事件 第2回
受領されなかった内容証明

 実は千葉は、訴状提出に先立って、矢野に対して平成23年4月5日付で内容証明を送付していた。千葉は西村修平を提訴していた裁判で「千葉が殺人事件の証拠(鍵束の発見状況)を隠蔽して自殺として処理した」などとする西村の主張が排斥されたことを述べた上で、訴状と同じ2本の記事に対して次のように主張し、対応を求めている。



 貴殿が発行人である東村山市民新聞と題するウェブサイトの平成23年4月4日付の千葉英司元副署長とは? との見出しのもと、上下二つの囲み記事で構成されている本文で、通知人を名指しした上で、自殺説を自ら全面的に否定、朝木明代議員を殺害した唯一の証拠(鍵束の発見状況)を隠蔽した、証拠事実の隠蔽は明らか等と記載しています。

 当該記事は、虚偽宣伝による悪質な情報操作であるとともに通知人(筆者注=千葉)に対する名誉毀損に該当します。

 よって通知人は、貴殿に対し厳重に抗議するとともに、当該記事の全文を本通知書到達から1週間以内に削除するよう求めます。


 
 内容証明は4月6日付で矢野が東村山市議会に住所として届け出ている住所に配達されたが矢野は不在だったようで、東村山郵便局は不在通知を入れた。しかし矢野から郵便局に連絡がないまま保管期間である7日間が経過。郵便局は再度矢野宅に配達に行ったがやはり2度目も不在で、内容証明は千葉の元に還付された。

 最初の配達の際に不在だったとしても仕方がないが、不在通知を入れていたにもかかわらず郵便局に何の連絡もないとは、市会議員の矢野は7日間にわたって連絡のつかない状態にあったことになる。これでは公務に関わる緊急事態が起きた場合には役に立たないのではあるまいか。

「草の根掲示板」廃止の理由

 ちなみに千葉が矢野に内容証明郵便を送付したのはこれが2度目である。8年前の平成15年1月、今はなき「創価問題新聞」の「草の根掲示板」に書き込まれたコメントをめぐり、千葉は発行人の矢野と編集長の朝木宛に削除と謝罪を求める内容の内容証明を送付した。このときは還付されていないから、矢野は受領したようである。千葉が問題とした「草の根掲示板」のコメントとは以下のようなものだった。



〈東村山警察の千葉のどあほが 証拠消すために 立ち入り禁止のロープも張らんかった(よって、野次馬から「ブンヤ」まで、あのビル中をじゃ、さがしまわったのに、でてこんかった「かぎ束」……)〉

〈東村山署の元・副署長じゃった千葉じゃ あのあほの千葉じゃ 証拠 消しくさった千葉じゃ〉


 
 千葉が問題にしたコメントはこれ以外にもあるが、これらのコメントはいずれも「正体は矢野ではないか」として有名な「MIDNIGHT MESSENGER」あるいは「M」によるものだった。偶然だが、「鍵(証拠の隠匿)」を問題としているという点で今回千葉が提訴した記事と共通した内容であることがわかろう。これも何かの因縁だろうか。
 
 この内容証明に対して矢野は、千葉が指摘したコメントについてはすみやかに削除した。本訴に持ち込まれることを回避したのだろう。しかし矢野からはなんらの謝罪もなかった。これでは削除が千葉の要求に屈したということにはなっておらず、第三者が気づくこともない可能性が高い。このため千葉は平成15年2月25日付で2回目の内容証明郵便を送付した。その内容は、

①謝罪をしない理由を示すこと
②「MIDNIGHT MESSENGER」あるいは「M」の身元を明示すること
③「MIDNIGHT MESSENGER」あるいは「M」が矢野であると指摘されていることに対して論駁せよ

 というものである。

 2通目の内容証明に対する回答はなかった。しかし、その後ほどなくして「草の根掲示板」そのものがなくなり、間もなく掲示板を設置していたホームページ「創価問題新聞」本体も閉鎖されたのだった。平成15年6月ごろのことである。

 矢野は自らが開設した掲示板で「MIDNIGHT MESSENGER」あるいは「M」として、また朝木直子は「TWILIGHT MESSENGER」あるいは「T」として、彼らを批判する者に対する誹謗中傷を繰り返していたことが明らかにされることを恐れたのではないかと千葉は受け止めた。

「草の根掲示板」について千葉は提訴しなかった。しかしそれから8年後、「MIDNIGHT MESSENGER」のコメント内容と共通する「鍵束」をめぐりまったく別の形で矢野と朝木を提訴することになったわけである。今度は矢野自身の記事であることが明らかだから、少なくとも「他人がやったことで自分の知るところではない」という言い訳は通らない。

 提訴後の平成23年5月20日、東京地裁立川支部で矢野と会う機会があった。「訴状を読んだか」という趣旨の質問をすると、矢野は一言だけ「ごくろうさん」と答えた。内容証明は受領を免れることができるが、訴状を受領拒否することはできない。このときすでに、矢野が訴状に目を通していることだけは事実のようだった。

(つづく)

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朝木明代転落死・鍵隠蔽事件 第3回
「行動する保守」一行の襲撃を警戒

 東村山市議矢野穂積と朝木直子(いずれも「草の根市民クラブ」)がウェブ版「東村山市民新聞」に掲載した記事をめぐり警視庁東村山警察署元副署長千葉英司が提訴していた裁判は平成23年11月7日、第3回口頭弁論が行われ、矢野と朝木が初めて法廷に姿をみせた。東京地裁立川支部5階のラウンド法廷である。2人ともそれなりに年を重ねたと思わせる以外に、表面上はこれといって特に変わった様子は感じられない。

 法廷前には裁判所職員が数名立ち、傍聴人の時間前の入廷を制限している。傍には日章旗やヘルメット等を一時預かる荷物置きも備えられている。矢野と朝木の味方である(実際には彼らに翻弄された)「行動する保守」一行が訪れることを警戒しているのである。なおここ数年、矢野と朝木の裁判に関して裁判所は、対千葉や私以外の裁判でも必ず特別な職員を配置している。 

 さて、千葉がこの裁判で問題としている記載を確認しておこう。



(記事1)

決定的事実がついに判明! ★副署長チバが、「自殺説」を自ら全面的に否定! そして「何者が何の目的で置いたか解明できていないが警察犬が帰った後に朝木明代議員の鍵束が置かれた可能性がある」(チバ陳述書)などとヌケヌケ言っているが、解明できるはずがないのだ! 唯一最大の殺害犯に直結する物証(鍵束)を、わずか1週間で単なる「遺失物」扱いで遺族に返している! 捜査をする意思のなかった何よりの証拠だ。
……
 なぜ副署長チバは、捜査をしなかったか!? ……副署長チバ、もう逃げ口上は無理なのだよ。

(記事2)

元副署長チバが、決定的事実を認める!  ★「警察犬が帰った後に朝木明代議員の鍵束が置かれた可能性がある」(チバ)⇒チバ「自殺説」を自ら全面的に否定! ★決定的事実を知りながら、なぜ、今まで一度も公表しなかったか !! ⇒ 証拠事実の隠匿は明らか!  ★やはり知っていた! ⇒「自殺説」を木っ端微塵にし、高裁7民判決も吹き飛ばし、殺害事件を決定付けた重大自白。▼副署長チバは、捜査責任者として詳細を全面自供し事実隠匿の責任をとりなさい! ▼警察内部からの事件捜査関係者の告発を、強く呼びかけます。



 千葉はこれらの記事が、朝木明代の自殺事件に関し「千葉は(殺人事件の)証拠を隠匿した」とするもので名誉を毀損するとして提訴したのである。

結論を急いだ矢野

 この裁判は記事1、2が千葉の社会的評価を低下させるかどうか、またそうだとすれば真実性・相当性があるか否かが直接的な争点になろう。ただ記事が冒頭で「千葉が自殺説を自ら全面的に否定」と断定していることを考えると、「明代の鍵を自殺現場に誰が何の目的で置いたのか」という点も重要な論点となるのではあるまいか。

 矢野がここでいう「千葉が自殺説を自ら全面的に否定」とは、鍵を置いたのは明代以外の第三者すなわち「犯人」であることを千葉が認めたとする解釈に基づく主張である。鍵が置かれたのは平成7年9月2日早朝に警察が警察犬を入れて現場検証を行ったあとであることが明らかで、矢野もその点はすでに認めている。つまり鍵は、明代以外の第三者が置いたという結論になる。矢野はその「第三者」が「明代を殺害した犯人」であるとし、千葉は「その証拠を隠蔽した」と主張しているのである。

「鍵が置かれた時間帯には明代はすでに死亡していたから、鍵を置いたのは明代ではなく明代を殺害した犯人だ」と矢野は主張しているが、そんなに結論を急ぐ必要はあるまい。平成7年9月1日午後10時ごろに現場付近で不審な声や物音を聞いたという証言はない。

「犯人」以外の人物の可能性

 そもそも「犯人」はいつ、どこで明代の鍵を入手したのか。鍵を置いたのが「犯人」であるとして、いったい「犯人」がなぜ明代の鍵を奪う必要があったのかと考えると、その理由をすぐに思い浮かべることはできない。むしろ今まさに人を殺そうとしている者にとって鍵などどうでもいいだろうし、まして数時間前に人を殺した者がわざわざ現場に舞い戻るというリスクを冒すことは考えにくい。

「自殺に見せかけようとした」などという説もあるようである。しかし、鍵が発見されたのが現場検証当日の午後5時30分ごろであることを考えると、まだメディアが騒然とし、しかもまだ明るい時間帯に「犯人」が鍵を置きに戻ることはあり得まい。矢野はウェブ版「東村山市民新聞」にこう書いている。

〈(現場には)報道だけでなく、一般市民も現場階段を多数上り下りし、当然に、焼肉店裏口付近も、しらみつぶしのように大々的な「捜索」がなされたが、発見できなかったのである。そのとおりだ。大勢の報道関係者らが、行きかうあの階段で、人目につかず、「「カゴ」に入った使用済みのおしぼりの間」に、あの派手な「鍵束」を入れる芸当は簡単ではないはずだ。〉

 遺品や証拠を捜しているメディアや遺族、関係者に紛れて、何かを探すフリをしながら鍵を隠すのが「犯人」であることを最も疑われない方法であるかもしれない。矢野の記載も、鍵を置いた人物は捜索していた者の中にいたことを念頭に置いている。私もその可能性が高いと思う。ただ矢野が結論を急ぐように、それがただちに「犯人」であるとするにはやや無理があるのではないか。

 事件発生から数時間しかたっていない時間帯に現場に来た者は限られていよう。あの狭い現場で、その中の誰とも接点のない者がいたとすればいやでも目につこう。しかし事件発生から15年、その時間帯に現場にいた者の中で誰とも接点がない不審者がいたという話は聞かない。これはどういうことなのだろうか。

 不審者はいなかった。しかし、そのとき現場にいてもなんら不思議はない者の中に鍵を置いた人物がいた。そう考えるのが最も合理的なのではあるまいか。

(つづく)

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朝木明代転落死・鍵隠蔽事件 第4回
鍵を入手できた人物

 明代の鍵を転落現場に置いていった人物は、矢野もいうように、警察による現場検証のあと「捜索」に加わっていた者の中にいたと考えるのが自然である。「捜索」に加わっていた者の中でも鍵を置くことができたのは、当然だが、明代の鍵を入手することができた人物である。では、明代の鍵を入手できる可能性があったのは誰なのか。

 通常、鍵は外出時には身につけているものである。ポケットの中か、あるいは携行するバッグの中に入れることもあろう。すると当時、明代の鍵を入手することができたのは、明代に直接会うか、鍵の入った明代のバッグに触ることのできた人物ということになる。

 では平成7年9月1日夜、明代が会う可能性のあった人物は誰なのか。当夜の明代の足取りを確認しておこう。

細かすぎる室内描写

 平成7年9月1日、朝木明代が東村山駅前のビルから転落死を遂げた当夜の9時過ぎ、自治会長会議に出席していた矢野が事務所に帰ってきた。そのときの状況を矢野は平成15年に出版した『東村山の闇』で次のように述べている。



(矢野が事務所に戻ってきたときの状況――『東村山の闇』)

 9時過ぎて、私は、予定より少し遅くはなったが、その「自治会長会議」から「事務所」に戻ってきた。駐輪場に自転車を置き、「事務所」の前まで来ると明かりが点いている。彼女、原稿に奮闘中だな、と思って、ドアを開けようとしたが、開かない。カギが閉まっているので鍵を使ってドアを開けた。

 エアコンはついている。手前のテーブルをみると、彼女の大きいショルダーバッグが口を少しあけたまま置いてある。ワープロも開いたままだ。傍によって、覗き込むと、電源が入っていて、画面には、あさっての「創価学会問題シンポジウム」の「レジュメ」が打ち込み中のまま、黒く四角い「カーソル」が手持ち無沙汰気味に、その主の帰りを待っていた。

 しかし、これまで、彼女が、エアコンをつけたまま、10分以上事務所を開けるようなことは一度もなかったし、私の戻る時刻は知っている。それに、あさっての「創価学会シンポジウム」の原稿も「半徹夜」覚悟なのは、お互いわかっていることだから、遅かれ早かれ戻ってくるだろう、と思いなおし、あまり気に留めないことにした。



 事務所内の様子など、まだ仕事が残っているにしては細かい点に気がつき過ぎるのではないかと思わせる描写である。明代が自殺した当時、矢野は「事務所からの拉致」を匂わせていた。

 矢野が説明する事務所内の様子は、乙骨正生の『怪死』でもほぼ一致している。ついたままの電気とエアコン、作業しかけのワープロ、事務所に残したバッグといった状況には客観的な裏付けはない。しかしすべては「事務所からの拉致」説に信憑性を持たせるための仕掛けだったと考えれば納得もいく。

「事務所から拉致」の「イメージ」

 実際に矢野は、『週刊文春』〈反創価学会女性市議の「怪死」〉(平成7年9月14日号)でも次のようにコメントしている。



(『週刊文春』における矢野のコメント)

「まさにちょっと出掛けてくる、という感じでした」

「誰かにうまく連れ出され、どこかの家に連れ込まれたんじゃないか、そうとしか思えないんです」



 少なくとも矢野はこのコメントによって、明代は「事務所から誘い出され、拉致された」ことにしようとしたことがうかがえる。つまり、「明代は矢野が事務所に帰ってくる以前に鍵を所持したまま事務所を出て、以後は事務所には来ていない(だから自分はその後、明代とは会っていない」といいたいのである。

 同じころ矢野は、自殺の翌々日に行く予定だった高知の「ヤイロ鳥」事務局長との電話の中で上記コメントをさらに具体的に述べている。



矢野  消えてんですから、事務所の中から、本当に消えてんですから。よくね、ここから駅まで往復2分なんですよ。

大崎  あっ、そんなに近いところなんですか。

矢野  ええ。東村山の駅までね。だからね、駅に誰か来てですね、交番が直ぐあるんですか、交番の側にはボックスがあって、そこから電話かけてきて、どう行けばいいかって、聞かれるでしょ。そうすると、じゃあ待ってて、迎えに行ってあげるからって調子で、全部置いて、鍵だけかけて、迎えに行って帰ってくると2分。その状態で消えているんです。イメージは。

大崎  ふ~ん。

矢野  だから、「消えてる」しかないんですね。言い方としては。

筆者注=矢野自身の反訳による)



「イメージは」と矢野は一応の留保をつける。駅前交番横の電話ボックスから電話で誘い出されたという話には具体的な裏付けがあるわけではない、自分のイメージにすぎないという留保である。

 しかしそれにしても、「ついたままの電気とエアコン、作業しかけのワープロ、残されたバッグ」という事務所内の様子からこれだけ具体的状況を「イメージ」してしまうとは、普通の人間にはできるものではない。「事務所から拉致された」ことにしようとする意思があったがゆえに、駅前の電話ボックスから電話で誘い出したなどという口からでまかせをしゃべることができたのである。

 このでまかせは法廷で追及された。すると矢野は法廷でも「イメージにすぎない」と供述し、電話で誘い出されたなどという話にはなんらの客観的根拠もないことを認めた。以後、矢野は「事務所からの拉致説」を主張しなくなったのである。矢野と朝木はその代わりに「自宅からの拉致説」を主張し始めた。要するに、いずれもなんら具体的根拠はないということにほかならない。

 ただ矢野は、事務所の様子が普通とはちょっと違うとは感じたものの、『東村山の闇』で「(その時点では)あまり気に留めないことにした」と書いているとおり、事務所に帰ってきた時点では、明代の身に特に何か「事件」が起きたとまでは考えなかったようである。

 すると矢野が高知の市民団体事務局長に語って聞かせた「イメージ」は、いつの時点かはわからないものの、少なくとも矢野が事務所に帰ってきた時点よりもあとにその必要が生じ、作られたものであると理解できるのではあるまいか。

(つづく)

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朝木明代転落死・鍵隠蔽事件 第5回
微妙に異なる記述

 平成7年9月1日午後9時10分前後に事務所に帰ってきた時点で矢野は、明代の身に特に何か異変が起きたとは感じなかった。その約10分後の午後9時19分、事務所に明代から電話がかかる。明代は自宅にいて、「ちょっと気分が悪いので、休んで行きます」という。

 つまり明代は、事務所に自分で鍵をかけて自宅に戻っていたことになる。矢野によれば、明代は事務所には来ず、以後、矢野は明代と会っていないという。

 矢野が事務所に帰ってくる以前に明代が事務所に鍵をかけて出たことは、その後の朝木宅の電話発信記録からも客観的事実であることが確認できる。家に帰った明代が事務所を出る際に鍵をかけることに不自然な点はない。

 すなわち矢野が事務所に帰ってきたときの状況として述べる内容のうち、事務所に誰もおらず、ドアには鍵がかかっていたことに限っては客観性がある。ということは、自宅から事務所に電話をかけたとき明代は事務所の鍵を所持していたということである。

 ところが転落死した明代は鍵を持っておらず、矢野によれば事務所にも自宅にも鍵はなかったという。これはどういうことなのか。「持っているはずの鍵がどこにもない」→「第三者によって持ち去られた」→したがって「明代の転落死には第三者が関与している(殺された)」――警察犬を動員した現場検証でも鍵が発見されなかったことについて矢野と朝木はこう主張していたのである。

 ところで、矢野が事務所に帰ってきたときの状況に関しては『怪死』(教育史料出版会=乙骨正生著)でも詳細な記述がある。当然、その内容は矢野の説明に基づくもの以外にはあり得ない。



(『怪死』における事務所内の様子)

 9時10分頃。矢野氏が「草の根」事務所に戻る。事務所の電気、クーラー、ワープロがつけっぱなし、外出のとき常に持ち歩くカバンは事務所に置かれたまま。中には、翌日、高知に行くため普段より多めの現金が入った財布も残されたままだった。



 『東村山の闇』にも同じ状況に関する記述があるが、なぜか『怪死』とは微妙に異なる。『東村山の闇』における該当個所は以下のとおりである。



(『東村山の闇』における事務所内の様子)

 エアコンはついている。手前のテーブルをみると、彼女の大きいショルダーバッグが口を少しあけたまま置いてある。ワープロも開いたままだ。



 現実に体験した当事者と取材して書いた者の間の感覚的なズレという以上に、この2つの記述には大きな違いがある。『怪死』では明代が何者かに誘い出された直後だったとしてもおかしくないと思わせる筆致だが、『東村山の闇』では矢野自身が最後に「気に留めないことにした」と明代の異変を否定している。両者の違いは、『怪死』が書かれた当時は「事務所からの拉致」が前提だったのに対し、『東村山の闇』では「自宅から拉致された」ことになっているという背景事情の変化に起因すると私は考えている。

財布の中まで確認した矢野

 全体的なニュアンスの違いだけでなく、具体的な描写にも大きな違いがある。『怪死』には記載されているバッグの中身、とりわけ重要な要素であるはずの「いつもより多めの現金の入った財布」があったことが書かれているのに対し、『東村山の闇』では、事務所に置いてあったと矢野がいう明代のショルダーバッグが「口を少しあけたまま」だったと書かれているだけで、バッグの中の財布にはまったく触れられていない点である。

『怪死』が「ふだんより多め」の額が入った財布に触れているということは、矢野が明代の財布の中身を確認した事実を伝えたということにほかならない。矢野自身も、『週刊文春』〈反創価学会女性市議の「怪死」〉(平成7年9月14日号)で次のようにコメントしている。



(『週刊文春』における矢野のコメント)

「バッグもあって、後で確かめたら中には財布も入っていた。だから、スグ帰ってくるだろうと思っていました」



 これは平成7年9月1日午後9時10分ごろ、矢野が事務所に戻った直後の状況とそれに対する矢野の感想である。この『週刊文春』の記事で矢野は「事務所から誘い出された」可能性を述べている。したがって記事の前提にある「イメージ」は『怪死』と同じだから、矢野は財布の話を述べたということと理解できよう。

 しかしなぜ矢野は、乙骨と『週刊文春』には話した財布のことに『東村山の闇』ではいっさい触れないのか。他人である矢野が明代のバッグの中を覗くということはプライバシーを侵すものであり、異常な行為である。よほど何か命に関わるような重大な出来事が起きたのでない限り、他人のバッグだけでなく財布の中身まで覗くなどあってはならない(そもそも、その目的も定かでない)。矢野はいつのころか、自分が他人の妻である明代のバッグの中だけでなく、財布の中身まで覗いたことの不自然さにおそらく気がついた。

 言い換えれば、矢野が明代の財布の中身まで覗くということは、明代の身によほど重大な何かが起きたという事実を矢野が把握していたことを意味する。しかし矢野にとって、そのような事実があっては困るのである。だから、『東村山の闇』ではバッグの中身にはいっさい触れなかったということではないのだろうか。

(つづく)

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朝木明代転落死・鍵隠蔽事件 第6回
 平成7年9月1日午後10時ごろ、当時東村山市議会議員だった朝木明代(「草の根市民クラブ」)は東村山駅前のビルから転落死を遂げた。当時、明代は窃盗(万引き)容疑で書類送検されており、東京地検から同僚の矢野穂積とともに呼び出しを受けていた。

 矢野によればその夜、明代は午後7時に矢野と事務所で別れたあと、矢野とは1度も会っていないという。しかしそのことを客観的に証明するものはない。むしろ午後9時19分、明代は自宅から事務所にいた矢野に「ちょっと、気分が悪いので、休んで行きます」という電話をかけていること、自宅から転落現場に至る経路の途中には「草の根」事務所があることなどを総合すると、明代が転落現場に行く前に事務所に立ち寄っていた可能性もないとはいいきれない。

 その夜、矢野は午後9時10分ごろ、事務所に帰ってきた。その後明代から「ちょっと、気分が悪いので、休んで行きます」という電話があった。矢野はその電話から、遅からず明代が事務所に戻ってくると受け止めたようである。矢野が思ったとおり、明代は2、30分後、「草の根」事務所に行ったのではないのか。

 その可能性を物語るのが事務所に残されていた明代のショルダーバッグである。明代のバッグが置かれたのは本当に矢野が事務所に戻る前だったのか、それとも明代が電話をかけたあとだったのか。

バッグを置いた時間

 表現に微妙な違いはあるものの、『怪死』と『東村山の闇』に共通しているのは、矢野が事務所に帰ってきたとき「事務所にはショルダーバッグがあった(しかし鍵束はバッグの中にはなかった)ことになっている」ということである。しかしそもそも、矢野が自治会長会議から帰ってきたとき、事務所に本当に明代のバッグがあったのかどうか。そのことを証明する客観的裏付けはない。

 前回までに述べたとおり、矢野が自治会長会議から事務所に帰ってきたとき、明代が事務所におらず、ドアに鍵がかかっていたことには信憑性がある。しかし、矢野が帰ってきたときの事務所の状況に関して『東村山の闇』や『怪死』、あるいはこれまで矢野が主張してきたその他の部分についてはたんに矢野がそう主張しているにすぎず、客観的な裏付けはない。

 とりわけ重要なのは、明代のバッグは事件後、確かに事務所にあったが、そのバッグが置かれたのが「矢野が事務所に戻る前だったこと」について客観的な証明がないことである。矢野は当初、「明代は何者かによって事務所から誘い出され拉致された」などと主張していた。しかし裁判でその点を聞かれた矢野は、「それはイメージにすぎない(=客観的根拠のあるものではない)」と自白してあっさり「事務所からの拉致説」を事実上撤回した。

 明代は「事務所から誘い出されて拉致された」という前提ならまだ「電気やクーラー、ワープロはつけっ放しで、明代はバッグを残して事務所を出ていた」という説明に合理性を感じさせないではない。しかし「事務所からの拉致説」が消えてしまった今、矢野が説明する「事務所の状況」よりも、むしろ9時19分に明代がかけてきた「ちょっと休んで行きます」という電話の内容の方が事実を語っているのではないだろうか。

 逆にいえば、矢野が自治会長会議から帰ってきたときの事務所の状況についての説明は「事務所からの拉致説」を前提にしたものではなかったかという疑いがある。明代がたんに自宅に帰っただけなら、鍵束をバッグに入れたまま、バッグごと持って帰ったとみる方が自然なのである。

「事務所からの拉致説」を自ら否定せざるを得ない状況に追い込まれた矢野は、今度は「自宅からの拉致説」を主張している。しかし「自宅からの拉致説」もすでに同時期に朝木が事実上否定している。平成7年9月1日午後10時ごろ、弟と父親らをレストランに残して独りで帰宅した際の家の中の様子を聞かれ、朝木は「そんなにきれいにはしていないが、家の中はいつもと変わりがなかった」と供述している。

 朝木は「きれいにしていないから、誰かが侵入してもわからないかもしれない」という含みを残したかったようである。しかしそれがかえって、どうしても何かが起きたと思わせようとする作為性をうかがわせただけだった。

 矢野と朝木は「事務所からの拉致」を自ら否定する事態に追い込まれたからといってなぜ明確な根拠も示さないまま、今度は「自宅からの拉致」を主張するのか。これではますます稚拙な出まかせと思われるだけではあるまいか。言い換えれば、矢野にとってそれほど朝木が事務所に立ち寄っていては困る事情があったということではなかったか。

 要するに自宅でも、何も起きてはいなかった。9時19分に明代が事務所に電話をかけたことの次に確認されている事実は、午後10時に東村山駅東口駅前のビルから明代が転落した事実である。すると明代はやはり、事務所にいた矢野に電話をかけたあと、独りで自宅を出たことになる。自宅から転落したビルへ向かう経路には事務所がある。

バッグを持って歩いていた明代

 乙骨正生の『怪死』には、自殺当日の明代の行動を記した一節に次のような記載がある。



(『怪死』における朝木明代の自殺当夜の目撃情報)

(午後=筆者)7時15分から20分頃、自宅西側の線路沿いを自宅方面に向かって歩いている朝木さんを支持者の婦人が目撃、挨拶をかわす。そのときはカバンを持っている。

 8時30分頃、自宅から「草の根」事務所方面に向かう朝木さんの姿を秋津薬品店主が目撃。



 午後7時15分過ぎに持っていた「カバン」と事務所に置いていたバッグは同一のものと考えていいだろう。また、7時15分過ぎに自宅方面に向かって歩いているのを目撃された明代はそのまま自宅で約1時間過ごし、それから事務所方面に向かったと考えるのが自然だろう。

『怪死』の記述は「8時30分」の目撃談からすぐに、



 9時10分ごろ、矢野氏が「草の根」事務所に戻る。事務所の電気、クーラー、ワープロがつけっぱなし、外出のとき常に持ち歩くカバンは事務所に置かれたまま。



 と続いている。ジャーナリストの乙骨が、8時30分に目撃された明代が「カバン」を持っていたかどうかになんらこだわることなく、9時10ごろ事務所に「カバン」があったと記載しているところをみると、8時30分の時点で明代が「カバン」を持っていたことを自明の事実とみていたことがうかがえる。この点に限っては私も異論はない。

 乙骨と千葉の見方が異なるのはそれから先である。乙骨は8時30分に目撃された明代がそのまま矢野が戻る前に事務所に立ち寄ったと考えている。これに対して千葉は、明代が事務所に行ったのはもっとあとのことだと考えていた。千葉にはそう考えるだけの事実の裏付けがあった。

 それが午後9時10分ごろ、明代が「東村山駅方面から事務所(自宅)方面に向かって独りで歩いているのを見た」という最後の目撃者による証言である。

(つづく)

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朝木明代転落死・鍵隠蔽事件 第7回
『週刊文春』もバッグを記述

 乙骨が『怪死』を執筆した当時、まだ矢野から吹き込まれていた「事務所からの拉致説」が念頭にあったかもしれない。この前提に立てば、8時30分に事務所方面に向かっていた明代はそのまま事務所に行き、その後、矢野が事務所に戻ってくる9時10分までの間に明代は何者かの電話によって鍵だけを持った状態で誘い出され、拉致されたという流れになる。だから、乙骨にとって8時30分の段階で明代が「カバン」を持っていたことは自明であり、もちろんそれで特段の不自然さも感じなかったのである。

『週刊文春』〈反創価学会女性市議の「怪死」〉(平成7年9月14日付)にも同様の記述がある。



(バッグに関する『週刊文春』の記述)

 矢野市議が事務所を出た5分ほど後の午後7時過ぎ、朝木さんは事務所から自宅方向に向かうところを知人に目撃されている。この時、朝木さんは愛用の青いバッグを手にしていた。

 午後8時半、今度は自宅から事務所方向に帰ってきた朝木さんを近所の商店主が目撃。これらのことから、朝木さんが、一度自宅に帰り、再び事務所に戻ったことは間違いない。事務所から持って出たバッグ、家から取ってきた資料が後に、事務所で発見されているからである。

 朝木さんが事務所に戻ったと思われるのは、午後8時30分過ぎ。



『週刊文春』が明代の自殺前の足取りを確認するにあたって、事務所にあった明代のバッグも重要な要素とみなしていたことがうかがえる。当時、8時30分の目撃者が最後と思われており、「矢野が9時10分に帰ってくる前に明代は事務所に立ち寄っていた」と考えることには一応の合理性があった。

『週刊文春』もまた7時過ぎに目撃された明代が持っていたバッグは8時30分の時点でも持っていたことは自明と考えているようである。このこと自体はなんら不自然ではない。

「最後の目撃証言」の重要さ

 しかしそれから先の、8時30分に目撃された明代がそのまま事務所に行き、矢野が事務所に帰る前にバッグだけを残して姿を消したという針の穴を通すような非現実的なストーリーは、矢野自身によっていとも簡単に否定されている。「事務所からの拉致」という荒唐無稽な作り話を別にしても、そもそも8時30分ごろに事務所方面に向かうのが目撃された明代がその直後、事務所に立ち寄った証拠はないのだった。

 むしろその後、8時30分に目撃された明代がその直後には事務所に立ち寄っていない可能性を示す目撃証言があった。「最後の目撃者」である。最後の目撃者は9時10分ごろ、今度は8時30分の場所から事務所を通り過ぎた位置にある東村山駅方面から事務所(自宅方面でもある)方面に向かっているのを目撃している。

 この目撃証言からは、明代は事務所前を素通りしてどこか別の場所へ行っていた形跡がうかがえる。もちろん8時30分の時点で明代はバッグを持っていたのだから、事務所を素通りしたとすれば、9時10分に目撃された際にもやはり明代はバッグを持っていたことになる。

バッグを置いた本当の時間

 では、そのバッグを明代はいつ事務所に持って行ったのだろうか。目撃情報に基く明代の歩いた地点および事件の関係箇所の位置関係は下記のとおりである。

自宅――事務所――自殺現場――東村山駅東口――万引き現場

 8時30分に目撃された明代は事務所を過ぎ、少なくとも東村山駅周辺よりも遠く(関係個所では万引き現場)へ行ったあと、事務所には立ち寄らずに自宅にまっすぐ帰った可能性が高い。事務所に立ち寄れば、自治会長会議から戻った矢野と出会ったはずだが、矢野は明代とは会っていない。

 するとやはり、明代はそのまま事務所を通り過ぎて自宅に帰り、9時19分に矢野に電話をかけたということではあるまいか。電話をかけた時間からも、9時10分ごろに東村山駅方面から歩いてきた明代はそのまま自宅に帰ったとみる方が合理的である。

「事務所からの拉致説」があり得ず、明代がバッグを持って自宅に帰ったとすれば、その場合、明代の転落死後、事務所にあったバッグは何を物語るのか。

 事務所に帰ってきた矢野に対して明代は「しばらく休んで(から事務所に)行きます」と伝えている。これが平成7年9月1日午後9時19分。明代が駅前のビルから転落したのは午後10時ころ。明代の自宅からビルに向かう経路には矢野がいた「草の根」事務所がある。

 矢野や朝木の説明では、9時19分の電話のあとに矢野は明代と会っていないことになっている。しかし、矢野に電話をかけたあと、明代が「草の根」事務所に行かなかったことはなんら証明されていない。明代がビルに行く前に事務所に立ち寄ったとすれば、バッグはそのときに置いた可能性もあるということである。その可能性を否定する客観的証拠はない。

 むしろ、バッグの中だけでなく財布の中身まで覗くという通常ではあり得ない矢野の行為(本連載第5回参照)からは、9時19分の電話のあとに明代が事務所に行ったとみても不合理とはいえないのではあるまいか。矢野は『週刊文春』〈反創価学会女性市議の「怪死」〉で9時10分に帰った際に明代のバッグが置いてあったとして次のように述べている。

「バッグもあって、後で確かめたら中には財布も入っていた。だから、スグ帰ってくるだろうと思っていました」

 記事は、〈そこへ、市議会議員のひとりから事務所に電話が入った。……市議会の日程などについて話をしていると、……そこにキャッチホンが入った。朝木さんからだった。〉と続く。

 つまり矢野は事務所に帰ってからほぼすぐに明代のバッグの中身を調べたことになる。通常、他人のバッグの中身を覗くなどという行為はなんらかの異常事態が起きた場合に限られよう。しかし少なくとも矢野が事務所に帰った時点で矢野は明代の身に異常事態が起きたとは考えていない。するとやはり、矢野が明代のバッグの中を覗いたのは矢野が事務所に帰った直後ではないのではないか。

 午後7時から9時10分にかけての目撃証言と、明代のバッグの中を覗くという矢野の行為の異常性を総合すると、明代は9時19分の電話のあとで事務所に行き、バッグはそのときに置いたと考えるのが最も合理性があるのではあるまいか。

 その前提に立てば、以下のような推理も成立し得よう。――明代は事務所で矢野と会い、その後事務所を飛び出して自殺現場へと向かった。矢野がバッグだけでなく財布の中身まで覗いたのは、明代が事務所を飛び出したあとである――と。矢野の異常な行為から、事務所で何かがあったと考えるのも不合理とはいえまい。

(つづく)

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朝木明代転落死・鍵隠蔽事件 第8回
バッグに触れない不思議

 自殺直前の明代のバッグに関する目撃証言は、明代がいつ事務所にバッグを置いたかを特定するにあたってきわめて重要である。ところが矢野が「事務所からの拉致」を否定して以降、矢野にとって自殺当夜の明代の目撃証言、とりわけバッグに関する証言を確認されることはあまり好ましいことではなくなったように思える。『東村山の闇』でも、明代の目撃証言は最小限の情報しか記載されていない。



(『東村山の闇』における明代の目撃証言)

 ……矢野さんは予定されていた多摩湖町での「自治会長会議」へでる。それが7時。そのあと母(筆者注=明代)はいったん家へ帰る。……

・7時半すぎ、自宅へ向かう母を見かけた人がいる。
・8時半、事務所へ向かう母をみかけた人がいる。
・9時10分過ぎに矢野さんが事務所に帰る。



『東村山の闇』におけるこの記載部分はわざわざゴシック体で目立つように印刷されている。にもかかわらず、この記録には重要な目撃証言が記載されていないのである。

 朝木はなぜ『怪死』や『週刊文春』にはあった「カバン」の目撃証言に触れないのか。きわめて不可解というほかないが、実の娘である朝木がこれほど重要な事実を無視するとは、「真相究明活動」をしてきたにしてはあまりにも軽率ではあるまいか。

 自殺当夜の朝木明代の目撃証言を時系列で丁寧に整理しながら、バッグの目撃証言に関してだけは、朝木はなぜ割愛あるいは無視したのだろう。本連載第7回までにみてきたように、矢野が明代のバッグの中身を調べた事実とその行動の特異性(異常性)からみて、矢野が事務所に帰った午後9時10分ごろに明代のバッグがあったとする矢野の説明は不自然である。

 むしろ明代は矢野が事務所に帰ったときよりももっとあとの時間帯にバッグを事務所に持っていった可能性がある。その点に疑問を持たれるのを避けるために、朝木はあえてバッグの目撃証言を割愛ないしは無視したのではないかとさえ思える。そうでなければ、「真相究明活動」をしているはずの実の娘がこれほどずさんな事実整理をすることは通常では考えにくい。

鍵がないことを知っていた矢野

 千葉は明代の鍵について、西村修平との裁判で「鍵は現場検証後に置かれたものである」と述べた。すると矢野は「鍵が現場検証後に置かれたということは、明代が自分で置いた(落とした)ものではなく第三者が置いたということであり、明代の転落死が殺人事件である証拠」と主張した。

 しかし矢野のこの主張は、明代の転落死にまつわる他のいっさいの事情を無視して鍵発見の状況だけを見ても、それだけでただちに明代が何者かに殺されたと断定するには拙速のそしりを免れないのではあるまいか。当時の明代を取り巻く状況と当夜の目撃証言、明代の会話の状況、現場の状況などあらゆる観点から総合的に判断すべきであり、矢野のように結論を急ぐべきではあるまい。

 むしろ鍵発見以外の状況は明代が自殺をはかったことを示している。すると鍵については、何者かが捜査を攪乱するために置いたものではないかという推理さえ成立しよう。千葉はそうみていた。

 自殺現場に鍵を隠した人物は明代の鍵に触れる機会があった者であり、その機会があった者は限られる。これまで見てきたように、自宅にいた明代は夜9時19分に事務所の矢野に電話したあと午後10時前に事務所に行った可能性があるのではないかと考えることに合理性がないとはいえない。すなわち、明代がバッグの中に鍵を入れていたとすれば、バッグの中身を調べた矢野は現場から出てきた鍵に触れることができたということになる。少なくとも矢野は明代の鍵に触れる機会があった可能性を持つ人物の1人である。

 矢野にはもう1点、「鍵がない」といいながら実は矢野は明代の鍵の行方を知っていたのではないかと疑わせるに十分な事実があった。矢野は明代の鍵がないことが確認できる状況となる以前に鍵がないことを知っていたのである。

 この種の事件においては通常、何があって何がないかがほぼはっきりするのは、事情聴取や現場検証、捜索等を終え、着衣や所持品、遺留品などが遺族に返還された時点か、少なくともそれよりもあとである。ところがジャーナリストの乙骨正生は『怪死』において、検死前の時点の話として矢野が「履いていた靴がなく、所持していたはずの鍵も見つからないなど不自然かつ疑問点が多い」などと説明していたというのである。

 矢野自身も、初動捜査終了直後の現場の状況について「東村山市民新聞」にこう記載している。



 カギ束・靴など朝木明代議員の所持品が未発見ということが知られていたから、報道だけでなく、一般市民も現場階段を多数が上り下りし、……



 警察はその時点では鍵がないことなど知らない。すると、一般市民までが知っていたかどうかは別にして、マスコミが靴だけでなく鍵もないことを知っていたとすれば、その情報源は乙骨には同じ話をしていた矢野以外にはない。

 転落現場で鍵が発見されなかったことについて矢野と朝木は『東村山の闇』で次のように述懐している。



(『東村山の闇』の記載)

 9月3日は通夜の日だった。午前、東村山警察署に長女の直子さんと次女の淳子さんらと朝木明代さんの遺品を受け取りに出かけた。

 衣類と腕時計しかなかった。持っていたはずの事務所の「鍵束」はなかった。靴もなかった。



 本来なら矢野はこの時点で、明代が事務所の鍵束を所持していなかったことを明確に認識したことになる。ところが矢野は9月2日、遺品も返してもらっていない段階で、明代が鍵を持っていないことを知っていた。矢野はなぜ明代が鍵を持っていないことを知り得たのだろうか。当然、鍵を隠匿した本人だからという推論も成立し得よう。

誰からも疑われない人物

 ところで矢野は、鍵が警察の捜索後に置かれたことを追認した上記「東村山市民新聞」の記事で次のように続けている。



 しらみつぶしのように大々的な「捜索」がなされたが、発見できなかったのである。そのとおりだ。大勢の報道関係者らが、行きかうあの階段で、人目につかず、「『カゴ』に入った使用済みのおしぼりの間」に、あの派手な「鍵束」を入れる芸当は簡単ではないはずだ。



 鍵がおしぼりの間に入れられた状況を再現するかのような臨場感あふれる記述である点できわめて興味深い。おそらくこの推理はほぼ当たっているのではないかと私も思う。あの狭い現場には「大勢の報道関係者」のほかに矢野も朝木も、その他の関係者もいたはずである。

 そのような現場で仮に「犯人」が鍵を隠そうとすれば、何もしなくてもその場所にいるだけで人目につこう。これこそ矢野と朝木が好む「不審者」である。ところが「捜索」の現場でそのような「不審者」がいたという情報はいっさい存在しない。

 すると考えられるのは、鍵は「捜索」の現場に立ち会っていても誰からも不審に思われない人物によって隠された――こうみるのが最も合理的なのではあるまいか。

 あらためて整理すると、鍵を現場に隠したのは、「鍵を入手できる可能性があった人物」「鍵がなくなっていることを当初から知っていた人物」、さらに「転落現場で遺留品を捜索していても誰からも不審に思われない人物」――この3つの条件を満たす人物ということになろうか。

(つづく)

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朝木明代転落死・鍵隠蔽事件 第9回
1人で自宅に急いだ朝木

 明代が転落死を遂げた平成7年9月2日早朝「鍵がない、靴がない」と騒いだ矢野と朝木は、少なくとも彼らには明代が自殺するなど考えられず、また明代にそんな言動や兆候も感じてはいなかったとも説明していた。ところがその説明に反して矢野は、明代のバッグの中を覗くといった通常では考えられない行為、言い換えれば矢野は明代の異状について何かを知っていたことをうかがわせる行動をとっている。

 矢野だけでなく朝木にも、少なくとも「母親は万引きによる書類送検によって精神的にかなり追い詰められている」と認識していたフシがある。

『怪死』によれば矢野は、午後10時少し前(『怪死』の記載。『東村山の闇』における矢野の記載では「10時すぎ」となっている)に朝木直子からかかってきた「母はいますか」という電話に「気分が悪いので休んで行くといっていたから、家にいるんじゃないの」と答えた(『東村山の闇』における朝木の記載も同内容)。ちょうど東村山駅前の住民が「ドスン」という大きな物音を聞いた時間帯である。

 朝木は父親、弟らとともに車で松戸から東村山に向かっている途中で、食事をしてから帰ろうと所沢のレストランに入ったところだった。矢野の回答の限りにおいて、明代の身に不測の事態が起きているとは考えにくかろう。しかし、朝木は続けて自宅に電話をかけ、明代が自宅にもいないことを知るや、父親と弟などをレストランに残し1人で自宅に向かった。

 それから先の朝木の行動は、明代がもはや平常な状態にはないことすなわち自殺の可能性を想定したもののように思える。事実はどうだったのか。『聖教新聞』事件で東京都代理人は平成11年11月15日、朝木に対する尋問をまずこの点から始めている。



東京都代理人  それで(事務所にも自宅にも)いないということで、あなたは所沢から、お父さんの大統さんと巌さんを置いて、1人で自分の自宅のほうに来るわけですね。

朝木  そうです。

代理人  どうして、そんなに急いでいたんですか。

朝木  今思えば、虫の知らせだったのかなという気もいたしますけれども、私の母は非常に健康ですし……まだ仕事をしている時間ですから、9時、10時というのはいつも。その時間に自宅で休むというのは私はよっぽど具合が悪いと思ったんです。……もしかしたら起きられないような状況になっているんじゃないかと思って、それで私は飛んで帰ったんです。

代理人  では、別に拉致されたとか、そういうことじゃなくて、体調が悪いと。

朝木  ……家に電話をしてもいませんから、当然いろんな嫌がらせがありましたから、万が一変な事件に巻き込まれているかもしれないという思いも、もちろんありましたし。

代理人  どっちなんですか。

朝木  いや、それは両方ですよ。……



 朝木は「午後の9時、10時というのはいつも仕事をしている時間だから、母が家で休むというのはよほど具合が悪いと思った」という。平成11年当時の供述では、母親の予定についての認識は曖昧だったようにみえる。ただ、何かあったのではないかという「虫の知らせ」があったと。

 しかしそれから4年後に出版した『東村山の闇』では、朝木の母親の予定についての認識は平成11年当時と異なる。朝木は『東村山の闇』ではこう記載している。



 その日の朝、私は松戸のアパートから母に電話した。……母は明日のシンポジウムのレジュメをつくらなければならないので、夜は事務所で仕事をしなければならないと言い、3人で食事をしてくるほうが助かると笑っていた。



 事実に対する記憶を述べるにあたり、事実から近い時点よりも遠い時点の記憶の方が鮮明に語られるとは、「真相究明活動」を続けてきた本人にしてはやや不可解である。

「市内の細かいことは知らない」

 朝木が「母親は万引きによる書類送検によって精神的にかなり追い詰められている」と認識していたのではないかと疑われる供述はほかにもまだある。尋問に戻ろう。



代理人  ……矢野さん自身は、そんなにキャッチホンの声を聞いても、それほど鑑定にあるように生命の危機に瀕したというようなことは感じなかったというふうにおっしゃっていますよね。

朝木  はい。

代理人  それなのに、あなたが戻ってきたのは、やはり虫の知らせということですか。

朝木  ですから、丈夫な母が、非常に気丈な母が、仕事中に気分が悪くて家で休むほどの状態というのは、よっぽど具合が悪いと、私はまず思って、家に電話をしました。そしたら、家に電話をしても出ないから、起きられないほど具合が悪いのか、あるいは、やっぱりその前に、家の門柱に放火までされておりますから、いろんな不穏な嫌がらせを受けておりましたので、それはそういう不安と一緒になって、とにかく家に帰らなくてはと思うのは、自然の感情ではないですか。

代理人  この日の前日に、先ほどもちょっと話を出しましたけれども、明代さんが市長の車にはねられそうになったというようなことを、あなたはご存じですか。

朝木  いえ、そういう話は聞いておりませんし、私は当時、松戸のほうに住んでおりましたので、その市内の細かいことについては、ちょっと私に聞かれてもわかりません。



 朝木宅の「門柱に放火された」と「いろんな不穏な嫌がらせ」などは市内のきわめて細かいことであると思うが、それについてはよく知っていたらしい。ところが、明代が市長の車にはねられそうになったことについては「市内の細かいこと」だから知らないという。これほどはっきり前言と矛盾する発言も珍しかろう。

 明代が車にはねられそうになった事実は、万引きで追い詰められた明代が異常な精神状態になっていたことをうかがわせる重要な事実である。明代にとって都合の悪い話だから、娘にも隠していたのだろうか。

(つづく)

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朝木明代転落死・鍵隠蔽事件 第10回
地検への出頭を知っていた朝木

 東京都代理人の次の質問に対しても朝木は、明代が市長車にはねられそうになったことを聞かれた際と同様あるいはそれ以上の過敏な反応をみせた。続く尋問をみよう。



東京都代理人  それでは、明代さんが(平成7年)9月5日に東京地検の地方検察庁の方に出頭を要請されていたと、9月5日に出頭するようにということを、あなたは知っていましたか。

朝木  5日かどうかは覚えておりませんけども、地検でも当然書類送検をしたあとに取り調べがあるということは聞いておりましたけれども、なにせ私は住まいが別だったもので、そういう活動自体の中に入っておりませんでしたので、ちょっとそういう市内とか活動の面の細かいことについてはちょっと聞かれても、はっきりと答えかねます。



 東京都代理人がここで明代の東村山での活動のことなどを聞いたわけでないことは誰がみても明らかである。「市内とか活動の面の細かいことを聞かれても」などという朝木の供述は質問の趣旨からかなりずれている。朝木は転落死当時に明代が置かれていた状況の核心を突かれて動揺し、必死にはぐらかそうとしたのではあるまいか。

「5日かどうかは覚えておりませんけども」と供述したということは、朝木は明代が東京地検から呼び出しを受けた事実、およびその日時を聞いていたということである。母親の最終的な処分に直結する重要な取り調べの日にちを忘れるはずがないと思うが、朝木はあくまで地検の取り調べを苦にしてはいなかったように取り繕いたかったのではあるまいか。

 朝木の供述によれば、当然、それを聞いたのは明代が死亡する以前のことで、わずか数日前のことである(朝木は東京地検での取り調べがあることを聞いたのが明代の生前であることを前提に述べていることが明らかである)。つまり朝木は9月1日の時点で、明代がきわめて厳しい状況にあることを十分に認識していたということになる。

 これまでの尋問で朝木は、母親が当時、万引きで追い詰められた状況であると認識していた様子をあまり表に出さなかった。しかし尋問から4年後の平成15年11月に出版した『東村山の闇』における記述は尋問での供述とはやや趣がことなる。理由は別にして、『東村山の闇』には平成7年9月1日、松戸から東村山に向かったときの朝木の心境がかなり詳細に記録されている。たとえばこんな記述がある。



(松戸を出発して)さてどこで食事をしようかということになったとき、なにか薄ら寒い胸騒ぎが下の方からジワジワと湧き上がり、打ち消しても打ち消してもからだ全体に広がっていった。



 平成11年の尋問では父親と弟らをレストランに残して1人で自宅に帰った理由について朝木は「虫の知らせ」と表現したが、『東村山の闇』では「胸騒ぎ」となっている。千葉は「『胸騒ぎ』とは具体的な理由があってのもの」と推測している。

すでに始まっていた「胸騒ぎ」

 では朝木の覚えた「胸騒ぎ」の具体的な理由とは何だったのか。それを知る手がかりは『東村山の闇』における上記記載の中にある。平成11年の尋問の時点では、明代が事務所にも家にもいないことがわかって「すぐに家に帰らなくてはとものすごく不安な気持ち」になったと朝木は供述している。ところが『東村山の闇』では、事務所に電話する前から朝木がすでに「胸騒ぎ」を覚えていたことを明確に述べている。

『東村山の闇』によれば平成7年8月下旬に次のような「殺害予告」があり、それが「胸騒ぎ」の原因となったと朝木は主張しているようである。『東村山の闇』の記載をみよう。



「放火」事件の後は、しばらくの間「ポケベル」のカウントアップがなかった。母に電話を架けて「そのこと」を話し、「4・4・4……」もたいしたことはなかったわね。その程度の嫌がらせしかできない程度の思考力の連中なのよ、と話したら、途端に1時間後から、また「カウントアップ」が始まった。

 それは時計が八月三一日の深夜一二時をまわった翌朝まで、つまり事件の日の早朝まで続き、事件後はピタリと止んだ。



 その数行後には、〈その会話(筆者注=朝木が9月1日に明代と電話で交わした会話)が盗聴されていたのだろうか。〉という一文もある。ちなみに朝木がここでいう「放火」事件とは、もうとっくに陽の上がった時間帯に門柱の上で新聞紙が燃え、発見者の明代は110番はしたが消火はしなかったという興味深い行動をとったという事件であり、当然、犯人はいまだ判明していない。

 朝木のポケベルに打ち込まれたという「4・4・4」も「カウントアップ」も第三者によるものとはいまだ客観的に証明されていない。そもそも朝木のポケベルの番号を無関係の第三者がどうやって知り得たのかという根本的な疑問がぬぐえない。

 さらに「その会話が盗聴されていたのだろうか」と疑問を呈するに及んでは、いささか冷静さを欠いた荒唐無稽な憶測ではないかとさえ思える。つまり朝木は『東村山の闇』において「胸騒ぎ」の理由について何一つ説明していないに等しかろう。すると朝木が感じていた「胸騒ぎ」の本当の理由は、実際にはほかにあるとみていいのではあるまいか。

 朝木の「胸騒ぎ」の理由が、明代の周辺で続いていたとする嫌がらせなどにあったのなら、朝木はなぜ東村山署に出頭し、具体的に被害を訴えなかったのだろう。東村山署は朝木に対して再三事情を聞かせてくれるよう要請したものの、朝木はついに姿をみせなかった。父親や弟が素直に聴取に応じているのに、「ポケベルのカウントアップ」や「44444……」という数字の打ち込みといった「被害」を直接知っているはずで、さまざまなメディアを通じて「他殺」を主張していた朝木が警察の事情聴取に最後まで応じなかったのはどうみても不可解なのだった。

(つづく)

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