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民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒

『民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒』(ユニコン企画発行、長崎出版発売、1200円+税)

現在の“東村山の闇”の原点である議席譲渡事件と女性市議転落死事故についてのルポルタージュ。今は絶版となっていて書店では買えないが、手元に在庫があるので、希望の方はこちらにメールしてください。書籍代+送料でお分けいたします。

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「東村山」の民主主義汚染を検証する  第1章 遺族の主張とメディアの報道 第1回
まえがき

 前回の連載で取り上げた『東村山市民新聞』第194号(2020年3月30日付=発行人・矢野穂積)記事のタイトルには「朝木明代殺害事件から25年目」とある。95年7月12日に窃盗容疑(万引き)で書類送検されていた朝木明代(東村山市議=当時)は、同年9月1日、東村山駅前のビルから転落死を遂げた。初動捜査を終えた東村山署は明代の転落死を「事件性は薄い」(=自殺)と認定し、9月2日、マスコミに発表した。捜査を指揮した千葉副署長は「万引き事件で書類送検されていたこと」が主要な動機とみていた。

 自殺の動機とみられる万引き事件について矢野は上記の記事で、万引き事件を「『朝木明代議員が万引きをしようとしていた』なる『被害届』が出た事件」とすることで、あたかも万引き事件がそもそも存在しなかった事件であるかのように記載し、「自殺する理由はありません」と主張している。

 しかし、万引き事件が存在したことはまぎれもない事実である。そのことは、前回の連載のとおり、明代が万引き事件の被疑者として取り調べを受け、矢野と明代が数々の隠蔽工作を企てたことからも明らかだった。彼らが企てた隠蔽工作はいずれも破綻し、明代は自らの首を絞めることになったのである。

 明代の書類送検は、罪を認めた結果という普通の状況ではなかった。こうした事情も、千葉が明代の転落死を「万引きを苦にした自殺」と判断した根拠だったと思われる。取り調べ段階から、とりわけアリバイが崩された明代の様子を現実にみてきた東村山署からすれば、「万引きを苦にした自殺」と判断することに不合理な点はなかったのだろう。なお、明代の死後、万引き事件について東村山署は東京地検から、「明代の窃盗容疑は認める。しかし、被疑者死亡につき不起訴とする」との連絡を受けたという。

 初動捜査の結果、東村山署は明代の転落死について「事件性は薄い」と判断し、9月2日にはマスコミに対してそのように発表した。しかしその日以降、東村山にはなにか異様な空気が漂っているように感じられてならなかった。「異様な空気」とは、事実が事実として受け入れられず、事実に反する情報が事実を凌駕しているように感じられる状況と言い換えられるだろうか。

 少なくとも情報量においては、圧倒的に事実に反する情報が東村山を覆っていた。当時、東村山でいったい何が起きていたのか。事件発生から25年がたち、拙著『民主主義汚染』執筆当時にはまだわからなかった事実もしだいに明らかになってきた。

 97年4月14日、東京地検は記者会見を開き、明代の転落死について「犯罪性がなく、自殺の可能性が高い」とする捜査結果を発表した。「犯罪性がない」というのだから、矢野や朝木直子が主張していた「他殺」は完全に否定されたことになる。こうして明代の万引きと転落死は、東京地検の発表によって事件としてはすべてが終結したのである。

 では、東村山事件に関する民主主義汚染も同時に終焉を迎えたのかというと、けっしてそんなことはなかった。本シリーズでは、当時は知り得なかった事実、様々な事情から書き切れなかった事実も含め、拙著『民主主義汚染』以後に判明した事実を可能なかぎり明らかにしていきたい。いまもなお終わっていない「東村山」の民主主義汚染の実情をお伝えするためには、それが一番の近道であると思う。

発見された直後の状況

 95年9月1日10時ごろ、東村山駅東口のマンション1階にあるハンバーガー店のアルバイト店員Aがマンション北側にあるゴミ集積所にゴミを捨てに行ったところ、近くに人が寝ているのに気づいた。Aは「酔っ払いかホームレス」だと思ったが、気持ちが悪いので近寄って確認することはしなかった。Aは急いで店に戻って同僚のアルバイト店員BとCにその様子を伝えた。

 10時30分ごろ、今度は店長が段ボールを捨てるためにゴミ集積所に行った。すると店長は仰向けの状態で倒れている女性を発見した。店長はこの日、午後8時ごろから午後10時ごろまで同マンション3階にある事務所で伝票などの整理をしていたが、その間に人が争うような物音は聞いていないということだった。

 店長は倒れている女性に何度も「大丈夫ですか?」と声をかけたが、女性はそのつどはっきりした声で「大丈夫です」と答えたという。その時点で、女性の意識ははっきりしていたことが推測される。

 店長は隣の駐車場との間にあるフェンスが破損しているのに気づいた。フェンスが壊れるなどそうそうあることではない。女性が上から落ちたのではないかと思った店長は、「落ちたのですか?」と聞いた。するとこれに対して女性は「違う」と答えたという。通常、第三者から突き落とされたなどの事情があれば、なんらかの被害を訴える言葉があってもおかしくないが、このとき女性が被害を訴えることはなかった。

 その直後、店長は隣接する駐車場の管理人が事務所から出てくるのに気づき、応援を頼んだ。管理人は女性の状況を確認するためにもう消していた駐車場の水銀灯を再点灯した。すると、周辺にかなりの出血があることがわかった。

 アルバイト店員Bがゴミを捨てにやってくると、店長と管理人が倒れている女性と話しているところだった。Bは女性に「救急車を呼びましょうか」と声をかけたが、女性は「いいです」と救急車を断った。

 女性の意識がまだはっきりしていたこの時点で女性の状況を最も説明していると判断できる材料は、近くのフェンスが破損していたこと、出血して倒れている女性から被害を訴える言葉が一言もなかったこと、女性が救急車を断ったことだった。

 Bは店長から交番に届けるよういわれ、10時40分過ぎ、東村山駅前交番に届け出た。交番にいた巡査はBとともに現場に急行し、女性の状態を確認すると本署に救急隊の要請を依頼、10時45分ごろ、本署の担当者はただちに119番通報した。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する  第1章 遺族の主張とメディアの報道 第2回
女性が明代であることを認知

 東村山署から出動要請を受けた救急隊が現場に到着したのは午後10時56分ごろ。午後11時25分ごろ、女性は所沢にある防衛医大病院に収容されたが、その時点で呼吸は停止し、心電図上の波形はあったものの、脈拍は触知できないという状態だった。最終的に9月2日午前1時、女性は死亡が確認された。

 一方、9月2日午前0時30分、矢野から刑事課に「朝木明代議員が昨夜の9時過ぎから行方不明になっている」との電話が入った。これをきっかけに、東村山署は昨夜に通報のあった女性が明代の可能性があると判断し、明代の顔を知る刑事が現場に向かった。しかし現場はすでに救急隊が防衛医大に搬送したあとだった。刑事は救急車を追いかけて防衛医大病院に向かい、死亡が確認された女性に面会した。その際、刑事は医師に対してこう話したという。

「現時点では明言できないが、東村山市議会議員の朝木明代かもしれない」

 明代の顔を知っているといっても、正式の身元確認は遺族しかできない。だから刑事は「明言はできない」と断りを入れたのである。東村山署はこの時点で、まだ断定はできないものの、転落死した女性が窃盗容疑で書類送検していた朝木明代でほぼ間違いないことを把握したのだろう。その情報は、自宅にいた千葉にも届けられた。

電話した時刻を否定した矢野

 防衛医大で明代が生死の境にあった9月2日の午前0時30分ごろ、矢野から東村山署の刑事課に入った明代に関する電話の詳細は以下のとおりだった。明代の万引き事件では明代とアリバイ工作を共謀した矢野は「市議の矢野ですが」と名乗り、次のように話した(=趣旨)。

「昨日の午後9時15分ごろ、事務所に朝木さんから電話が入り、『体の具合が悪いので、少し休んでから事務所に行く』といって電話が切れたのですが、この時間になっても来ないものですから、そちらへ行っていないかと思って電話を入れたのです。私も心配で2、3病院を当たったのですが、病院には行っていないのです」

 千葉が東京地裁でこの電話があった時刻を「0時30分ごろと聞いております」と証言した際(99年11月15日=『聖教新聞』事件)、原告席に座っていた矢野は即座に「ウソをつけ!」と強い口調で非難したものだった。矢野は電話した時刻が9月2日の午前0時30分だったことを否定しているのだった。

 しかし、矢野からの電話を受けた警察官が時間と内容をメモしていたこと、矢野が電話で「昨日の午後9時15分ごろ、事務所に朝木さんから電話が入り」といっていたことから、矢野が東村山署に電話してきたのが9月2日であることは明らかなのだった。矢野自身が9月1日のことを「昨日」といっているのだから。

警察に連絡するよう依頼した直子

 矢野が東村山署に電話したのが「9月2日の0時30分ごろ」だったことをこれほど強い口調で否定するのはなぜなのか。矢野と朝木直子が出版した『東村山の闇』の中に、その理由を推測させる記載がある。

 9月1日22時25分ごろ、直子は当時住民票を置いていた千葉県松戸市から東村山の自宅に帰ってきた。すると、自宅にも「草の根市クラブ」の事務所にも明代がいないことがわかった。矢野に聞くと、21時過ぎに明代から電話があり、「『気分が悪いから休んで行く』」といっていたことを知る。その明代が自宅にいないことを不安に思った直子は、事務所にいる矢野に電話をかけ、「東村山署に電話を入れてもらった」という。

 矢野が東村山署に電話した時刻は「22時33分」であるという。「朝木市議が行方不明状態ですが、そちらになにか情報が入っていませんか」と。同書によれば、「そういう報告はきておりません」との回答だったという。その直後、矢野から「警察に電話した報告」があったと直子は記載し、わざわざ「(※発信記録を確認)」と注記までしている。

 直子が22時30分ごろに、矢野に東村山署に電話するよう依頼し、ほどなくして矢野が直子に「警察に電話した報告」をしたのは事実なのかもしれない。私の手元には、矢野が裁判所に提出した95年9月1日における直子の自宅と「草の根事務所」双方の電話発信記録がある。それによれば、直子が22時30分ごろに矢野に電話したとしている点については自宅の電話発信記録と矛盾しない。

抜け落ちた発信記録

 では「草の根事務所」の発信記録はどうか。直子の記載によれば、22時33分ごろに矢野は事務所から警察と直子の自宅の2カ所に電話していなければならない。直子は「(※発信記録を確認)」とまでいうので、「草の根事務所」の当夜の発信記録を確認した。すると、確かに「22時33分」に「93-****」にかけた記録はあるが末尾4ケタが伏字になっているため、それが東村山署に電話したことを証明できるものではないことがわかった。

 さらに注目すべき点があった。「22時33分」ごろには「草の根事務所」から東村山署宛てと直子の自宅宛ての2件の発信記録がなければならないが、発信記録を確認すると、「22時33分」ごろに発信された記録は1件しかなかったのである。

 これはどういうことなのだろう。ちなみに直子の自宅の電話番号も東村山署と同じ「93-****」である。直子は『東村山の闇』において、22時33分ごろに矢野から「警察に電話した報告」があったと明記している。一方で、矢野からの電話を受けた刑事課の刑事は、それが「9月2日午前0時30分ごろ」であるとメモに残している。双方の記録から矛盾しないのは、矢野が「22時33分」に電話したのは東村山署ではなく直子の自宅だったと理解することなのではあるまいか。

 矢野は「22時30分」に直子から「東村山署に連絡してほしい」という連絡を受け、「22時33分」、直子に「警察に電話した報告」をしたというのが事実なのではないかと推測しても不自然とはいえまい。直子から「警察に連絡してほしい」という電話を受けた矢野が直子に「警察に電話した報告」をするまでの間に、「東村山署に問い合わせた」という事実が抜け落ちていることは明らかである。矢野は「22時33分」には東村山署に電話などしていないのだから、直子には嘘の報告をしたのだと考えるのが合理的なのではあるまいか。

 明代が東村山東口駅前のビルから転落し、生死をさまよっている間に、矢野の側でも明代に関して直子に嘘の報告をしなければならない事情が生じていたことは確かなようだった。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第3回
「22時33分」の電話を自ら否定

 95年9月1日、「『22時33分』に明代の安否を確認するために東村山署に電話した」という矢野と直子の主張が事実に基づくものではなく、矢野が実際に東村山署に電話したのは、東村山署の刑事が記録した「9月2日0時30分ごろ」だったことは「草の根事務所」の電話発信記録以外からも証明できる。

 95年9月2日0時30分ごろ、矢野からの電話に対応した刑事のメモの内容をあらためて確認しよう。矢野は次のように話している。

「市議の矢野です。昨日の午後9時15分ころ事務所に朝木さんから電話が入り、体の具合が悪いので、少し休んでから事務所に行く、といって電話が切れたのですが、この時間になっても来ないものですから、そちらに行ってないかと思って電話を入れたのです。私も心配で、2、3病院を当たったのですが、病院には行っていないのです」

 この矢野の発言のうち、まず「昨日の午後9時15分ころ」といっている点は、矢野が東村山署に電話したのが日付の変わった9月2日であることを示している。

 矢野が東村山署に電話したのが9月1日「22時33分」ではないことを裏付ける根拠が、矢野の発言の中にもう1点あった。矢野は刑事に対して「私も心配で、2、3病院を当たったのですが、病院には行っていないのです」と話している。矢野が本当に「22時33分」に警察に電話したとすれば、矢野は9月1日「22時33分」の時点で、すでに「2、3病院を当たって」いなければならない。

 同日午後10時19分、松戸から東村山の自宅に帰る途中の直子から電話を受けた矢野は、「おかあさんから、9時すぎに電話があって、『気分が悪いから休んで行く』といっていたから、自宅だと思うよ」と答えている(『東村山の闇』)。矢野の返答からは、すぐに「2、3病院を当たる」ほど明代の身を案じているような様子をうかがうことはとてもできない。矢野は直子から警察に連絡するよう頼まれたから電話したにすぎないのである。

 9月1日22時33分の時点で矢野が「2、3病院を当たっていた」という事実はない。矢野が9月2日にマスコミに配布したメモの記載も、その事実がないことを裏付けている。遺族らの時系列の行動を記した箇所には「23時~24時 病院に直接確認(出向く又は、電話で)」と記載されている。したがって、矢野が「2、3病院を当たった」事実が仮にあったとしても(その証明はないが)、その時間帯は「23時~24時」であると矢野自身が説明しているのである。

 矢野と直子が警察に電話したと主張する「22時33分」の時点ではまだ「2、3病院を当たった」事実はないのだから、矢野がそのような話を22時33分の時点でするはずがない。矢野は自分が配布したメモによって「22時33分」に警察に電話したとする事実を否定していることになる。するとやはり、「草の根」事務所から「22時33分」に発信された記録は自宅にいた直子に「警察に電話した」とする報告をした際のものとみるのが妥当という結論になるのではあるまいか。

弟が直子の主張を否定

 当然、直子もまた「22時33分」の時点で病院には問い合わせをしていない。その点について、直子は法廷で次のように供述している。



(「朝木直子が病院に電話した」とする時間に関する供述)

東京都代理人  あなたが陳述書で言ってらっしゃる、病院等に電話したというのは、この中(筆者注=朝木宅の電話発信記録)ではどれなんですか。

朝木  病院に電話したかどうかわかりませんけども。

代理人  いや、電話したというふうに、陳述書に書いてあるじゃないですか。懸命な努力をしたと。

朝木  ええ、病院には何度も行って、このあと、ありますか。

代理人  このあとではなくて、あなたが10時30分か40分に。

朝木
  このあとだと思いますが。

――略――

代理人  あなたは市内の病院に電話をしたり、病院を駆け回ったというようなことを言ってますね。

朝木  しましたよ。

代理人  どこが病院なんですか。今おっしゃった中では、病院が出てこないんですけど。

朝木  ですから、これは11時57分までの記録じゃないですか。もっと夜中まで探してたんですよ、私たちは。



 朝木宅の電話発信記録には午後11時57分まで病院に電話した記録が存在せず、その事実を直子は認めた。ならば東京都代理人が電話発信記録を示した際に、その記録には載っていないと最初からいうべきではなかっただろうか。

 いずれにしても、このままでは22時30分以降、必死に母親の安否確認を行っていたとする主張が嘘だったことになってしまう。すると直子は、今度はこんなことをいい出した。「自宅からは電話していないが、直接病院に行ったり、車に乗りながら携帯電話でかけたりした」と供述したのである。しかもそれは、「午後11時57分」よりあとの「もっと夜中まで」だったと。

 では、夜中の12時を過ぎた時刻に直子はどこをどう探したというのか。その点に関する具体的な供述はない。その理由は、直子が「午後11時57分」よりあとに病院を探しまわったとする事実など存在しなかったからではないのか――そう推測できる事実があった。直子の弟は警察の事情聴取で、「9月1日、私は夜の11時ごろ自宅に帰り、その後、9月2日午前2時40分ごろに母親が亡くなったという連絡を受けるまで、直子ら3人でずっと自宅にいた」と供述していたのである。

 弟の供述どおり直子がずっと自宅にいたとすれば、「午後11時57分」よりあとに直子が病院を探しまわることはできない。直子は代理人からすぐさま矛盾を指摘され、弟の供述内容について「それは弟の勘違い」と一方的に否定した。それならばどこの病院に行ったのか、直子は具体的に示すべきだが、直子にはそれはできなかった。そのような事実がないからだと判断せざるを得ない。直子は母親の身を案じて「病院を探しまわった」ことにするために、弟の証言まで否定したもののように思えてならない。

 東村山駅前のビル裏手で血を流して倒れている明代が発見されたころ、矢野が直子に「警察に電話した」とどうやら嘘の報告をしたことといい、明代の転落死をめぐり、水面下ではすでに客観的事実とは別の筋書きが準備されようとしていたようだった。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第4回
万全の態勢をとった東村山署

 不審死の場合には、死因が何なのかを究明しなければならない。明代は95年9月2日午前1時に防衛医大病院で死亡が確認されたが、死に至った原因が事故によるもの(=この場合は自殺)なのか、第三者が関与したもの(=他殺)である可能性があるのかについての判断はなされていない。明代の場合も早急に検死作業を行う必要があった。時間がたてばたつほど、判断の正確性が下がる可能性が高まることは避けられない。

 明代の遺体は、同3時過ぎに東村山署に到着した。間もなく警察医による検案が実施され、死因は「高所よりの転落」とそれによる「出血性ショック死」と断定されている。

 通常なら、その後の捜査の流れは、東村山署が現場検証や聞き込みを行い、事件性の有無を判断することになる。しかし、現場で捜査を指揮した副署長千葉英司はいつもとは異なる判断をした。今回の件については、あえて本庁に鑑識、検死官、および警察犬を要請し、明代の万引き事件で取り調べを予定していた検察官にも現場での立ち合いを依頼した。いつも以上に捜査の公正・中立を確保し、適正を期す必要があると考えたからだった。

書類送検後の主張

 その背景にあったのは、東村山署が朝木明代を窃盗容疑で書類送検した95年7月12日以降の、矢野と明代の主張と、それを取り上げたマスコミの報道内容だった。前回の連載(『東村山市民新聞』を読む(2020年3月30日付第194号))で詳述したように、万引きの疑いで取り調べを受けた明代は、矢野と口裏を合わせて虚偽のアリバイを主張したものの、証拠として提出したレシートが他人のものであることが明らかになり、東村山署は同年7月12日、明代を窃盗容疑で東京地検八王子支部に書類送検した。

 同日の取り調べで明代は、「今日の取り調べはなかったことにしてください」と、それまで2度の取り調べで主張してきたアリバイが虚偽だったことを全面的に認める発言をしていた。そのアリバイは矢野も同じ主張をしていたから、明代はそのアリバイ主張が意図的になされたものであることをも自白したことになる。万引き犯でなければ虚偽のアリバイを主張する必要はない。つまり、上記の明代の発言は、自分が万引き犯であることを認めるものに等しかった。仮に起訴されて裁判になった場合、この発言の持つ意味は小さくないと思われた。

 ところが、その日の午後、明代は全国紙各紙多摩支局宛に「『窃盗事件』に関するコメント」と題する書面をファックスで送付した。



(「『窃盗事件』に関するコメント」)

 私が窃盗を働いたというデッチ上げ事件について、以下の通り見解を発表します。

 記

「窃盗事件」があったという日には、現場付近には行っておらず、全く身に覚えのない「事件のデッチ上げ」に、強い怒りを覚える。

「当選返上」以来、一部グループが根も葉もないことで「草の根」に刑事告発などを繰り返している嫌がらせの1つで、現行犯でもなく、朝木明代と事件を結び付ける物的証拠もないまま、人を陥れようとして被害届をだした洋品店主には、ただちに「誣告罪」で逆告訴の手続きをとる考えだ。

 また、商品が実際になくなったわけでもなく、実害もないのに、被害届を警察が取り上げたこと自体問題で、政治的な動きといわざるをえない。



 明代がここでいう「当選返上」とは、同年4月に執行された東村山市議選で、当選した朝木直子が虚偽の住民票移動を行って自らの当選を無効にし、落選した矢野穂積を繰り上げ当選させた事件のことである(拙著『民主主義汚染』)。直接選挙による市民の意思を立候補者の都合で覆そうとするものにほかならず、普通の人間には思いもつかない反社会的行為だった。これに対して市民グループが強い反発の声を上げるとともに、東村山市選管の決定に対して異議申立を行い、あるいは直子が居住の実体がないにもかかわらず他市に住民登録をしたとして告訴した(公正証書原本不実記載)。

 明代はコメントで、市民グループの動きを「嫌がらせ」と矮小化し、自分を万引き犯として洋品店主が被害届を出したこともその一環だと主張しているのだった。つまり、万引き事件の被害者である洋品店主は政治的な理由によって自分を陥れようとしている加害者であり、警察もまた同様の理由で根拠のない被害届を取り上げたのだ、と。このコメントにあるのは、自分は洋品店主と東村山署によって陥れられたとする陰謀論にほかならなかった。

 東村山署の取調室でアリバイを崩され、それまでの主張の撤回に追い込まれた明代が、そのわずか数時間後に、はたして「当選返上」までを絡めた陰謀論を構成できたのだろうかという疑問もある。アリバイ工作を共謀したという点では、矢野もすでに万引き事件の当事者だったのだから、矢野が自ら明代の代弁を買って出たとしても不思議はない。

 明代が報道各社に送信した「『窃盗事件』に関するコメント」は、身の潔白を具体的に主張するものではない。それでも、マスコミに対して無実を主張したことには意味がないではなかった。95年7月13日付『朝日新聞』は明代が書類送検された事実とともに、書類送検後に上記の内容のコメントを出したことを伝えた。少なくとも読者は、明代が容疑を否認していることを認識しただろう。

 矢野と朝木にとってはそれが重要なのだった。最高裁で矢野の繰り上げ当選が無効となった議席譲渡事件について、矢野と直子がいまだに非を認めていないのと同じように、仮に明代が起訴されて有罪になったとしても、矢野と明代は永遠に万引きの事実を否認し続けるつもりだったのではあるまいか。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第5回
外部メディアで「関係者」を名指し

 いったん全国紙で万引き容疑を否定する明代の主張が掲載された後は、たんに明代の主張の紹介では終わらなくなった。「陰謀論」に興味を持ったマスコミが次々に矢野と明代に近づき、彼らは取材に応じてより具体的に「陰謀」の中身を説明したのである。私が確認できた限り、明代(あるいは矢野)が最初に「陰謀」の関係者として具体名を挙げたのは95年7月14日付『夕刊フジ』においてだった。

 同紙は「でっち上げです」「Tシャツ万引き容疑で書類送検の朝木東村山市議の言い分」と題する明代のインタビュー記事を掲載している。記事で明代は次のように主張している。



(95年7月14日付『夕刊フジ』における明代の主張)

(万引き事件について)

全くのでっち上げです。弁護士と相談して、今日にも誣告罪で告訴の手続きをとるつもりです。

(真相は?)
私は〝事件″があったとされる時間にはまったく別の場所にいました。証人もいます。こんどの事件には政治的背景が感じられます。

(政治的背景とは?)
私は公明党と戦争状態なのです。洋品店の女性店長も党員なのです。私の存在は目の上のタンコブで、うざったいのでしょう。



 万引きで書類送検されたのが市会議員だからといっても、常識的にみて、これほど一方的に容疑者の主張を取り上げるのは異例なのではあるまいか。『夕刊フジ』はこれが「売れる記事になる」と判断したのだろう。その最大の要因は、明代がインタビューで答えた「公明党と戦争状態」「政治的背景」「女性店長も党員」という文言だったと推測された。明代の口から発せられた文言を総合すると、「自分は公明党とその党員である女性店長に陥れられた」とする主張であると理解できるのである。

「政治的陰謀事件」へと変質

『夕刊フジ』の記事に刺激されたのか、翌同年7月15日付『日刊ゲンダイ』も事件を取り上げた。記事の冒頭で明代が窃盗容疑で書類送検されたことを記載しているものの、タイトルで「万引きだ」「公明の謀略だ」と両者の主張を併記していることが示すように、「事件はでっち上げ、公明の陰謀だ」とする明代の主張にかなり引き寄せられていることがうかがえた。

 記事は「ハレンチ事件は政治謀略めいてきた」とした上で、万引き事件についての明代の具体的なコメントを紹介している。明代は次のように述べていた。

「当日午後は同僚市議と別の場所にいたから、万引き犯は私ではない。事件は公明市議と創価学会員のブティック経営者によるデッチあげ。……(私を)万引き犯に仕立て上げたのです」

『日刊ゲンダイ』がブティック経営者に対する取材も行い、「朝木市議の顔を見間違えるはずがないし、ウチが学会員なんて大ウソです」とのコメントも掲載している点は評価できるが、記事は「陰謀なのか、それとも単なる万引きなのか」との文言で締めくくられていた。驚いたことに、明代が「政治的背景」「公明の陰謀」と口にしただけで、メディアにおいて単純な万引き事件は「政治的陰謀」の可能性を持つ事件へと変質してしまっていた。情報の扱いには慣れているはずのメディアでさえこうだから、メディアが発信する情報を目にした読者がなおさら「陰謀事件」ではないかとの疑念を抱いたとしても不思議はなかった。

東村山署に対しても揺さぶり

『夕刊フジ』と『日刊ゲンダイ』が「政治的陰謀」の疑念を印象付けたのに続いて、矢野は明代とともに発行する政治宣伝ビラ『東村山市民新聞』(95年7月19日付~8月5日付)において「誰の陰謀?」「見えてきた『陰謀の構図』」などと、明代の万引き容疑が陥れられたものであるとの主張を繰り返し、ついには「『デッチ上げ』に暗躍したのは創価公明集団だ」と彼らが主張する「陰謀の関係者」を名指しするに至った。

 同年7月28日付『夕刊フジ』では、「創価学会の政界支配を斬る!!」と題する連載記事に2人の次のようなコメントがある。

「私たちを邪魔な存在と考える何者かが、私たちに〝万引き議員″〝暴力議員″のレッテルを貼り、草の根グループの市議会からの追放をたくらむ陰謀を始めたのです。そして何者かとは創価学会・公明党の関係者であると私たちは考えています」

 万引き被害者や東村山署のコメントはいっさいない、矢野と明代の主張を一方的に取り上げた全面的な偏向記事である。

 この間の『東村山市民新聞』では、「政治的陰謀」に加えてさらに新たな要素が加わっていた。同年7月19日付同紙には東村山署に対しても次のような挑戦的な主張を行っていた。

「朝木議員には、完璧なアリバイがある。警察はどう事後処理する考え?」

 同年8月5日付同紙には「物証なしで犯人扱い」「物証が何一つないのに朝木議員を書類送検した東村山警察重大疑惑」「『デッチ上げ』に暗躍したのは創価公明集団だ」「その証拠に警察署長ら幹部と警察署長室で密談」の文言が並んだ。事件は「創価公明による陰謀であり、東村山署がその企みに加担したもの」であるかのように印象付けるものだった。

週刊誌も次々に参加

 同年8月に入ると「創価公明による謀略」とする矢野らの主張に引き寄せられたのか、週刊誌メディアも相次いで彼らの主張を取り上げた。その中の1つ、『週刊ポスト』では明代と矢野の次のようなコメントが紹介されている。



(『週刊ポスト』における明代と矢野の主張)

「東村山の刑事課に呼ばれ、……朝木さんが犯人だといってますと告げられ、その瞬間、ああ、学会にやられたと思いました。……もちろん私は万引きなどはやっていません。事件当日のアリバイがあります」(明代)

「アリバイは裁判で明らかにします。今話してしまうとアリバイの証拠を消されてしまう」(明代)

「犯行があった時刻には私と一緒に行動していて証明もできます」(矢野)

「こちらでは洋品店主の妻が創価学会関係者であると総合的に判断しています」(矢野)



 記事は矢野と明代のコメントを紹介した上で、最終的に「裁判がすべてを明らかにしてくれるはずだ」として同誌としての判断には踏み込まなかった。両論併記もいいが、それもケースによるのではあるまいか。創価学会とは無関係の洋品店主にすれば、「創価公明による政治的謀略」など思いもよらない戯言にすぎなかった。

 似たような趣旨の記事は他に『フライデー』、『週刊実話』、『週刊新潮』と続いた。これらの記事はいずれも「明代は政治的謀略によって陥れられたのだ」と断定するものではない。しかし、少なくとも記事を読んだ読者に対して、矢野と明代の主張内容について事実を確認する必要があるのではないかと感じさせるものでもあった。週刊誌はもとより読者は、警察の発表、あるいは万引き被害者の申告を100%信用できない状態になっているといえる。

 明代の万引き現場を目撃した洋品店主や、明代のアリバイ工作を崩した東村山署からすれば、被害の申告や書類送検に疑義を呈されること自体、受け入れがたいものだっただろう。明代の転落死に際しても、千葉は再び同じ状況になりかねないことを直感した。だから、現場検証等について最大限の捜査態勢を敷いたのである。捜査指揮官としてきわめて的確な判断だったと評価できるのではあるまいか。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第6回
矢野からの電話で認知

 明代の転落現場の現場検証は95年9月2日午前7時ごろから始まるが、東村山署内では転落した遺体が明代なのかどうか、遺族による確認などの手続きが行われた。身元確認は遺族や関係者しかできないのである。

 身元確認をするには遺族に連絡を取る必要がある。通常は所持品などの手がかりを頼りに警察の方から遺族にするのだが、明代の場合には別の経緯によって遺族に情報が伝わったようである。

 東村山署が東村山駅前のビルから転落し、死亡した女性が明代かもしれないと認識した経緯についてあらためて振り返っておこう。

 95年9月1日午後10時40分、東村山駅前交番から「駅前のビルで重傷の女性。身元は不明」との通報。9月2日午前0時30分、矢野から刑事課に「朝木明代議員が昨夜の9時過ぎから行方不明になっている」との電話が入ったことで、東村山署は昨夜に通報のあった女性が明代の可能性があると判断し、明代の顔を知る刑事が現場に向かった。

 通報から2時間近くがたっており、現場はすでに救急隊が女性を防衛医大に搬送したあとだった。このため刑事は交番に立ち寄り、通報した巡査から発見当時の状況を聴取した。刑事は、ハンバーガー店の女性アルバイト店員が女性に「大丈夫ですか」と聞くと「大丈夫です」と答え、「救急車を呼びましょうか」と聞くと「いいです」と断ったこと、また発見者から話しかけられるのがいやそうな様子だったことなどを確認。刑事は明代が万引き事件でアリバイを主張したものの、それが崩され、書類送検されたことをよく知ってもいたから、明代は「自殺をはかったようだ」との感触を持った。

 刑事は9月2日午前1時過ぎに防衛医大に到着。明代が死亡したことを確認すると、副署長の千葉に連絡し、千葉はただちに東村山署に向かった。

 防衛医大で遺体の縫合等が終わったあと、刑事は葬儀社に棺を手配し、遺体を東村山署に運んだ。不審死の場合は検死が必要で、いったんは警察署に運ぶ必要がある。その場合、遺体をそのまま運ぶわけにはいかない。遺体に敬意を払うという趣旨もあり、死亡場所から検死を行う場所まで遺体を棺に入れて運ぶのはごく普通のことである。

再び矢野からの電話

 明代の遺体が東村山署に向けて出発したあとの午前2時30分ごろ、再び矢野から東村山署に通報があった。

「朝木の自宅前に不審な車が停まっている。朝木の行方不明と関係があるかもしれない。すぐに来てほしい」

 のちに、この車の主は、飲み屋の女性を待っていただけで、明代とは何の関係もないことが判明しているが、矢野から電話を受けた当直の警察官は、矢野にこう伝えた。

「矢野先生ですか。昨夜11時すぎに防衛医大に運ばれて亡くなった女性がいます。朝木先生かもしれないので署まで来てください」

 明代の遺体が東村山署に到着したのは午前3時過ぎだった。

 変死の場合、遺族による身元確認と遺体の引き渡しは死体検案のあととなる。死体検案とは警察医による死因の確認作業で、自殺他殺の判断を含む。よって、検案前に遺族に引き渡せば、遺体に手を加えられる可能性がないとはいえないからだった。午前4時過ぎから警察医による死体の検案が行われ、千葉も立ち会った。死体検案書には「直接死因」として「出血性ショック死」と記載され、自殺他殺の判断はなされていない。

 遺族による身元確認は午前5時から約10分間、明代の夫である朝木大統、直子、直子の妹と弟、それに矢野、遺族関係者によって行われ、遺体が明代であることが確認された。このときはじめて、「明代が東駅前ビルから転落し、死亡した」との事実が確定したのだった。

遺族が司法解剖を強く希望

 通常、不審死の場合でも、明らかに事件性がないと判断される場合には、遺体の解剖は行わない。明代の場合も、発見時に被害を訴える言葉がなかったこと、救急車を断ったこと、防御創など他人と争ってできたと思われる創傷がなかったことなどから、東村山署は「自殺」と判断しており、解剖の必要性を認めていなかった。

 ところが、遺族は解剖を強く希望して譲らなかった。このため東村山署は任意の行政解剖を行う判断をしたが、遺族が「聖マリアンナ医科大病院で解剖してほしい」などと言い出した。遺族が希望する病院で解剖を行った場合、中立性が損なわれる可能性がないとはいえなくなる。

 このため東村山署は検察官の判断を仰ぎ、強制力を持つ司法解剖に切り換えざるを得なかった。司法解剖なら、正確性を期するため、検察官は遺族の要望によるのではなく、検察官の判断で信用と実績のある医師に解剖を依頼することができるのである。

 司法解剖は検察官が裁判所に司法解剖申請を行い、裁判官が必要と認めて許可を出した場合にのみ可能となる。明代の司法解剖は「殺人被疑事件」として行われたが、「事件性なし」では裁判所から解剖許可は下りない。このためやむなく、検事は「殺人被疑事件」として申請書を提出することにした。

検察官による検死の判断

 司法解剖に先立って、午前7時過ぎからは検事および千葉の要請によって警視庁本部から派遣された検死官による検死が行われた。警察医による死体検案と異なるのは、検死は検事が遺体を見ることによって犯罪性の有無(死因ではなく)を判断するものであるという点である。

 通常の変死の場合だと、検死は担当刑事と警察医によって行われ(代行検死)、警察署上層部にその報告がなされて終了となることが多い。しかし明代のケースでは、千葉は事後にどのような事態に発展するかわからないと判断し、検察官と本部検死官の立ち合いを要請し、万全を期したのだった。

 検死が始まった時間帯には転落現場の鑑識活動も行われた。検察官は現場の状況と遺体の状態を照らし合わせて判断を行った。その結果、検察官が下した結論は「犯罪性はない」というものだった。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第7回
「犯罪性」がないとした理由

 検察官と本部検死官が明代の遺体を検死した結果、「犯罪性はない」と結論付けた理由は以下のとおりだった。



(検死結果)

①着衣に第三者と争ってできたような破れ、ほころび、ボタンが飛んでいるというようなことがない。

②遺体に、他人と争ってできるような変色、皮膚剥離等、防御創と認められる創傷がない。

③頸部に損傷、圧迫痕等がなく、溢血点もない。

④左右上腕、前腕、手指等に他人からつかまれたような変色痕はない。

⑤左右の手、爪にも損傷はない。

⑥着衣、身体に、手すりを無理やり越えさせたような擦過はない。

(以上の検死結果に基づく判断)

①嫌がる者をつかまえて、手すりを越えて転落させるには、着衣に損傷、汚れ、身体に変色表皮剥脱等ができるが、それがないことは、他人が突き落としたことが否定される。

②転落位置のフェンスや換気口の損傷状況と、遺体の創傷の間に矛盾がない。



 東村山署から「朝木先生が亡くなったかもしれない」との一報を受けて東村山署に来た矢野は、明代の遺体を確認する前から「殺されたんだ」とわめき、一方では明代の姉妹らしき女性が「あなたがついていてどうしたの」と矢野をなじっている声も聞こえたという。明代の身内から非難されたことも手伝ってか、矢野は身元確認後も刑事に向かって「これは他殺だ」と主張していた。しかし、検死の結果からは、明代が何者かに殺されたと判断できるような点は発見できなかったのである。

現場の鑑識状況

 転落現場の捜査は、95年9月2日午前7時ごろから警察犬を投入しての現場鑑識活動、現場付近の聞き込み等を開始、検索活動は同日夜にかけて継続的に実施された。

 転落現場の捜査結果は以下のとおりだった。



(転落現場の状況)

①明代が倒れていた場所の真上に位置するマンション5階の手すりに、手指のものとみられる跡が3カ所ついていた。

②その指先は階段方向(マンション側)に向いていた。

③手指跡のある手すりのマンション側には擦過痕などはついていない。

④その他の場所にも擦過痕は発見できなかった。

(上記の捜査結果に基づく判断)

①5階の手すりに手指の跡があり、1階から4階までの他の手すりには痕跡がないことは、5階の手すり上から転落したものと推定できる。

②他人から突き落とされたとすれば、助けを求めるなど騒ぐはずだが、そのような声や物音を聞いた者はいない。

③手指の跡が3カ所あることは、他人から抱き上げられたことが否定される。

④5階手すりの建物側に擦過痕等がないことは、他人と争った状況にはなかったことが推定される。

⑤明代は手指の跡のあった手すりのほぼ真下に落下したと推定され、他人が突き落としたとすれば、ビルから離れた場所に落下するはずである。



 転落現場の鑑識捜査の結果、明代の転落死に他人が介在した状況を確認することはできなかった。

聞き込みの状況

 周辺の聞き込み状況や事情聴取の結果は以下のとおりだった。



(聞き込みと事情聴取の結果)

①現場マンション5階居住者
「午後10時ごろ、部屋で洗濯をしている際、『キャー』という悲鳴に続いて『ドスン』という大きな物音が聞こえてきた。交通事故かと思ってあわてて外を見たが、外は特に変わった様子はなかった。しばらくして救急車が来たのでけが人が出ていることを知り、マンション5階をくまなく見たが、付近に遺留品等は何もなかった」

②転落現場付近の住人
「午後10時ごろ、駐車場方向から『ドスン』という音が聞こえてきたので、交通事故かと思い外を確認したが、そのような事実はなかった」

③倒れている明代を発見したモスバーガー店長
「午後8時ごろに仕事を終え、10時ごろまで同マンション3階にある事務所で伝票整理をしていた。この間、人の争うような声などは聞いていない」

「午後10時30分ごろ、段ボールを捨てにゴミ置き場に行くと、仰向けの状態で倒れている女性を発見した。『大丈夫ですか』と何度も声をかけたが、女性はそのつど『大丈夫です』とはっきりした声で答えた。『落ちたのですか』と尋ねたところ、女性は『違う』と答えた」

④アルバイト店員
「倒れている女性に対し、『救急者を呼びましょうか』と尋ねたところ、『いいです』と断られた。女性は話しかけられるのを嫌がっているように感じられた」



 マンション住人らに対する聞き込みの結果からは、明代の転落死に第三者は介在していないことが推定できた。

 モスバーガー店長や店員の証言からは、発見当初、明代はまだ意識がはっきりしていたことがうかがえる。仮に明代が何者かに突き落とされたのだとすればまず最初に被害を訴えるはずだが、明代から被害を訴える言葉はなく、救急車も断っていることからすれば、犯罪性はないと判断できた。

 なお、明代は靴を履いておらず、ストッキングの足の裏が破れていた。転落現場から靴が発見されなかったことから、明代はどこかから現場マンションまで歩いてきたものと推測できた。そこで、明代がどのような経路で現場マンションまで歩いてきたのか、捜査では警察犬に追跡させようと試みたが、最初に嗅がせた血の原臭が強すぎたためか、臭跡をたどることはできなかった。

通知されていた出頭期日

 上記の初動捜査と検死の結果をふまえて、千葉、検察官、検死官、本部、刑事課長を交えて討議した結果、東村山署は明代の転落死について「犯罪性は薄い」と判断していた。ただ、初動捜査を終えた時点で記者会見した東村山署は、千葉が口頭で「朝木明代がロックケープハイムビルから墜落し、9月2日午前1時、収容先の病院で死亡した」こと、「事件、事故の両面から捜査中である」と発表するに留めた。まだ初動の段階であり、司法解剖もまだだったからである。また、「今後は不明の靴やカギの発見、目撃者の発見等事実解明のため所要の捜査を行う」とした。

「犯罪性」が薄いということは自殺の可能性が高いということである。自殺とすれば動機は何なのか。やはり、万引き容疑で書類送検されたことと関係があるのだろうか。検死のあと、千葉は検察官から、明代にはすでに取り調べの出頭日時を通知していたこと、その期日が同年9月5日だったことを知らされた。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第8回
靴に関する情報

 95年9月2日、初動捜査を終えた時点で、集まっていた報道陣に対して副署長の千葉が「事件、事故の両面でから捜査中である」とし、「今後は不明の靴やカギの発見、目撃者の発見等事実解明のため所要の捜査を行う」と付け加えた会見内容のうち、「不明の靴やカギ」と具体的な捜索内容を挙げたのは、矢野が「殺された」と騒ぎ、「靴がない、カギがない」と訴えていたからだった。

 明代が履いていたストッキングは足の裏が汚れ、破れていたから、どこから来たのかは明らかでないものの、明代が現場まで靴を履かずに歩いてきたと推測しても不合理とはいえなかった。現場に遺留品にはバッグもなかったから、明代がカギを持っていなくても特に不審な状況ではない。カギはバッグに入ったままだったとしてもなんら不思議はないのである。

 実はそのころ、千葉の元にはある新聞記者から靴に関する興味深い情報がもたらされていた。以前喫茶店だった物件を借りていた草の根事務所は、1階にはテーブルや椅子を置いていて、2階を事務所として使用しており、2階は靴を脱いで上がるようにして使っていた。9月2日早朝、明代の転落死情報を聞きつけて事務所に取材に行った記者によれば、「2階の入り口に女性ものの靴が一足、脱いだままの状態で置かれていた」というのだった。それが明代の靴だったとすれば、明代は草の根事務所から転落現場まで裸足で歩いてきたとする推測が成立する。

矢野と夫が立ち入りを拒否

 そのような予断はともかく、本来明代の所有物である靴とカギを探すにあたり、転落現場以外に草の根事務所と明代の自宅が捜索対象となったのは当然である。ところが、千葉によれば、この2カ所については調査がされていなかった。なぜなのか。千葉は東京地裁で次のように証言している。



(草の根事務所と自宅の調査に関する千葉の証言)

東京都代理人
  (筆者注=矢野と直子が「なくなった」と主張する靴とカギについて)どこか探さない場所があったんじゃないですか。

千葉  はい。事件現場と原告らが主張します事務所、それから朝木さんの自宅、この2カ所については調査がされておりません。(筆者注=矢野は当初、「明代は事務所から誘い出されて拉致され、自宅に監禁されたのち、ビルから転落させられた」と主張していた)

代理人  どうしてですか。

千葉  拒否されました。(筆者注=このとき、原告席にいた直子がすかさず「ウソをつくな」と千葉を非難した)

代理人  最も靴だとかカギが残っていそうな、明代さんが当時勤めていた事務所、それから自宅、こういったものについて見せてくれといったんだけども拒否されたと、こういうことですね。

千葉  はい。

代理人  だれが拒否したんですか。

千葉  事務所については原告矢野さんだと聞いておりますし、自宅については亡くなられたご主人であります大統さんと聞いております。

代理人  大統さんが断ったということですね。

千葉  はい。

代理人  それでは、いろいろ、そういったものを捜すにあたって、その当時履いていた靴とかカギの特徴、こういったものは聞いたんでしょうか。

千葉  協力を得られませんでした。わからないという話でした。



 靴とカギが現場にないのはおかしいというのなら、現場から歩いても3分もかからない事務所、あるいは現場から5分以内で行ける自宅を捜すことはきわめて自然だろう。仮に警察が事務所と自宅を捜索する気がないようなら、矢野はむしろ自ら捜索するよう要請してもおかしくない。ところが、「ないのはおかしい」と訴えている矢野や遺族が、調査してしかるべき場所への立ち入りを矢野と大統が拒否したというのである。司法解剖を求めてまで真相を追及しようとしていたはずの矢野と大統は、なぜ事務所と自宅に対する警察の立ち入り調査を拒否したのだろう。

 真相を究明したいのなら、この対応は不可解というほかない。不可解どころか、事務所と自宅の調査を拒否した彼らの対応は、非協力的を超えてもはや何かを隠そうとしていたように思えてならない。

 仮に捜査員が矢野の態度から不自然なものを感じ取ったとしても、明らかな刑事事件(殺人事件)でない以上、強制捜索を行うことはできない。あくまで任意の調査であり、警察の立ち入りを拒否できることを矢野は知っていたのである。だからといって、警察の調査を拒否することはないと思われるが、いったいどんな理由があったのだろうか。

直子の大声の意味

 直子が「ウソをつくな」と非難したのは、千葉の証言が、本来なら捜査に協力すべきであるはずの矢野と大統が、表面上は真相究明を訴えていながら、その言葉とは裏腹に「事務所と自宅への立ち入り調査を拒否したこと」に言及した箇所である点に注目すべきである。

 東村山署が転落現場で発見されなかった明代の靴とカギを捜すために、残されている可能性のある場所として事務所と自宅を想定するのは当然であり、調査に行かないはずはない。しかし、東村山署は事務所と自宅については調査することができなかった。

 その点については、直子はまったく反応しなかった。直子も警察が事務所と自宅には立ち入り調査をしていないことを知っているから、黙って聞いていたのだろう。ここまでならまだ我慢できた。

 もちろん直子は、警察が立ち入り調査をしていない理由も知っていただろう。しかし、「矢野と大統が立ち入りを拒否した」という事実が明らかにされることは、都合のいいことではないと認識していたということのようだった。これが世間に知られれば、真相究明を求めているはずの矢野が、なぜ警察の立ち入り調査を拒否したのかとの疑念を持たれることになりかねない。むしろ矢野は真相を隠そうとしていたのではないか、と。直子が千葉の証言中に大声を出したのは、真相を隠したかった矢野の本心を知られたくないという思いからだったように思えてならない。

 矢野が事務所の調査を拒否したことと関係があるのかどうか、9月2日早朝、女性ものの靴が脱ぎ捨てられているのを目撃した記者が、次に草の根事務所に行ったときにはもうその靴はなくなっており、記者が見た靴が誰のものだったのか、確認することはかなわなかった。記者が見た靴がなくなったということは、靴が実際にあったという事実自体を確認することができなくなったということでもあった。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第9回
警視総監にも報告 

 矢野が行政解剖を拒否したことで急遽行われることになった司法解剖は午後から慈恵医大病院で行われた。解剖所見によれば、死因は多発性肋骨骨折、肺損傷、左右腓骨骨折および左脛骨骨折等に基づく出血性ショックによると判断された。

 アルコール、毒物、薬物の検査も行われたが、いずれの反応もなかった。薬物、毒物の反応がないということは、他人が薬物等を使用して転落させたとする仮説を否定するものであるといえた。つまり、これらの解剖結果は、それまでに行われた検死、捜査結果と矛盾しないものだった。司法解剖には警察官が立ち会っており、解剖所見が報告された(同年9月4日には同日付「解剖立会報告書」としてまとめられている)。

 司法解剖を終えた時点で、東村山署はマスコミに対してあらためて明代の転落死に関する発表を行った。マスコミの注目は事件性があるのかないのかという点に尽きた。これに対する東村山署の結論は「現場の状況、関係者からの聴取及び検死の結果等から事件性は薄いと認められる」というものだった。

「事件性が薄い」とは「事故あるいは自殺」ということになろう。東村山市議である朝木明代が、夜の10時に駅前のマンション5階まで行き、手すりを越えて転落するという事故は、通常では考えられない。したがって、「事件性が薄い」とは「自殺の可能性が高い」と結論付けたに等しい。

 この東村山署の結論は、警視総監、副総監など警視庁幹部にも報告された。警視庁上層部から東村山署に対して異論は出ていない。警視庁として東村山署の結論を承認したということと理解できる。

警察の見解とは異なる主張

 一方、同年9月2日午後、矢野は草の根事務所で記者会見を開き、マスコミに対して「朝木明代殺人事件の経過」と題するワープロ打ちのメモを配布していた。時系列で記載されたメモの中には「22時ころ 突き落とされる」の文言と、「22時40分ころ 東村山署に『朝木が行方不明状態、情報はないか』」との電話をかけたとする記載、さらに「23時ころ 119番に朝木搬送はなかったか確認の電話」、「23時~24時 病院に直接確認(出向く又は電話で)」との記載があった。

 検死と現場検証の結果に基づき、副署長の千葉が口頭で「事件性は薄い」とする見解を発表したのに対し、矢野はどんな根拠があったのか「他殺」を主張していた。その上、東村山署に「明代が行方不明になっている」との電話をかけた時間は9月2日午前0時30分ではなく「9月1日22時40分ころ」に改ざんされ、裏付けのない「確認の電話」をしたことになっていた。

 時系列のメモの最後の項目として記載されていたのは、「2時30分ころ 不審車と朝木がつれさられたと110番」の文言だった。ここで矢野がいう「不審車」とは、ただ飲み屋の女性を待っていただけだったことがのちに判明する。しかしもちろん、このメモを渡されたマスコミはその場で事実を確認することはできないから、取り上げるかどうかは別にして、とりあえずは矢野の主張を聞いておくしかなかった。

 このメモの行間からは、明代が「ビルから突き落とされ」たこと、矢野らは警察や病院に問い合わせをするなど可能な限りの努力をして明代の身を案じていたこと、どうやら「明代は不審車の人物かその仲間によって連れ去られたらしい」というストーリーを読み取ることができた。私が確認した範囲では、これが形として残る矢野による「他殺説」の始まりだった。

不可解な矢野の対応

 この中で、客観的事実として認められるのは、「2時30分ころ 不審車と朝木がつれさられたと110番」したことだけで、その110番の中身さえ矢野がそう訴えているにすぎない。「22時ころ 突き落とされる」の文言に信憑性を与える事実として加えたのだろうと推測できる。

 時系列でみると、メモの中に出てくる「事実」としてはこれが最後だから、矢野は少なくとも95年9月2日2時30分以降にこのメモのストーリーを考えたことになる。正確には「ストーリーを完成させた」といった方がいいのだろうか。

 そう思わせる証言があった。9月1日夜の11時ごろに帰宅した直子の弟は、「病院を探した」と主張する直子が実際にはずっと家にいたと証言しているが、当夜の直子の様子に関してもう1つ興味深い証言をしている。直子はしばらくすると「母は拉致されたようだ」といい始めたというのである。

 矢野がいた草の根事務所の電話発信記録に、弟の証言との関連性をうかがわせる記録が存在していた。直子は同日午後10時30分ちょうどに自宅から事務所の矢野に電話をかけ、東村山署に明代の安否を確認してくれるよう依頼している。同10時33分に事務所からの発信記録がある。矢野と直子によれば、矢野が東村山署に安否確認をしたときの発信記録だという。しかし現実には、東村山署には日付の替わった9月2日0時30分に矢野から電話がかかった記録があるだけである。

 直子は矢野に東村山署に電話するよう依頼したあと、矢野から「警察には何も情報は入っていない」とする連絡を受けたというが、それが何時だったについてはなぜか明言していない。この点と、矢野が東村山署に実際に電話した時刻について嘘をついている事実、すなわち矢野は9月1日午後10時33分には東村山署には電話していない事実を総合すれば、草の根事務所の午後10時33分の発信記録は、東村山署ではなく直子にかけたものだったとみるのが合理的である。

 その通話時間は2分弱で、矢野が東村山署に問い合わせをしたことにして直子にその結果を報告したものだとすれば妥当な時間といえるだろう。一方、これが東村山署に問い合わせたものだとすれば、市議会議員が「行方不明状態にある。何か情報は入っていないか」という内容の重大性からすれば、当然、対応した警察官も何か情報が入っていないか署内に確認するだろうから、2分弱で通話が終わるとは考えにくい。

 矢野が理由もなく東村山署には電話せず、直子に対しては警察に電話したことにし、その上「警察には何も情報は入っていない」と虚偽の報告をすることはあり得ない。矢野はこの時点で明代に関する何か重大な事実を知っていたがゆえに、東村山署には問い合わせの電話をせず、直子に虚偽の報告をしたということではないのだろうか。

 草の根事務所の電話発信記録には、それから約40分後の午後11時11分、午後10時33分と同じ局番の電話番号に発信した記録があった。

(つづく)
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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第10回
直子が変化したきっかけ

 矢野は95年9月1日午後11時11分、同午後10時33分と同じ局番の電話番号に電話をかけている。その通話時間は6分12秒と比較的長い。この電話もまた直子にかけたものであり、その内容は「明代は何者かによって拉致された」とする趣旨のものだったのではないか――。そう推測させるのが「11時過ぎから直子は『母は拉致されたようだ』」といい始めたという弟の証言である。

 直子が午後11時過ぎになってそれまでいっていなかったことをいい始めたということは、明代に関する直子の認識にそのころなんらかの変化、きっかけがあったということである。その内容も、たんに母親の身を案じていただけだった直子が急に「母親は拉致されたようだ」といい始めたというのだから、天と地ほどの違いである。家にずっといた直子に、外部からの情報あるいは働きかけが何もないまま、これほど大きな認識の変化が生じるとは考えられない。

 直子の認識を大きく変化させた原因は何だったのか。それが、午後11時11分に矢野からかかってきた電話だったのではないか。そう推測しても、それほど突飛とはいえないだろう。

 その電話によって、「明代は何者かに拉致された」という共通認識が矢野と直子の間に出来上がったと考えれば、矢野がマスコミに配布したメモに「2時30分ころ 不審車と朝木がつれさられたと110番」と記載されたことも納得がいく。「拉致された」という共通認識があったことで、何でもない駐車車両が「不審車」となり、「拉致」に関係ある車として扱われたということだろう。少なくともこの時点で、直子が「母は拉致された」と認識していた(本気かどうかは定かではない)ことは事実であり、弟の証言がほぼ裏付けられる。

 95年9月1日午後10時30分、直子から「東村山署に母の安否を確認してほしい」とする電話を受けた矢野は、東村山署には連絡せず、同10時33分、直子には東村山署に連絡したと偽って「何も情報は入っていない」と報告した。それから1時間もしないうちに、矢野と直子の間では「明代は何者かに拉致された」という共通認識が出来上がっていた。この事実から類推できるのは、この短時間のうちに矢野が「明代は何者かに拉致された」というストーリーを作出したということである。

大きな賭け

 9月2日、矢野がマスコミに配布した「朝木明代殺人事件の経過」と題するメモには、「明代は拉致された」という文言は出てこない。しかし、文書に出てくる「殺人事件」、「突き落とされる」「不審車と朝木がつれさられたと110番」の文言がマスコミの注目を集めることは間違いなかっただろう。

 メモの内容はどうみても「事件性は薄い」とする東村山署の判断とは真っ向から対立する内容であり、当然、記者会見では上記の文言に関して質問があるだろうことは予測できた。矢野にはとりわけ「突き落とされる」とする文言に関して、マスコミに配布したメモ以上の、説得力のある説明が要求されるだろう。はたして矢野の主張はマスコミにどう受け止められるのか。矢野にとっては大きな賭けだったのではあるまいか。

恐るべき特異性

 9月2日付け全国紙夕刊や9月3日付全国紙朝刊の記事をみると、「明代が万引きで書類送検されていたこと」、「救急車を断ったこと」など、東村山署の広報に基づいて全体として「自殺」ではないかと事実を冷静に伝えている。「矢野市議の話」を比較的丁寧に取り上げたのは9月3日付『朝日新聞』と「自殺するはずない」とする関係者の声を見出しに掲げた同日付『東京新聞』である。

『朝日新聞』は「矢野市議によると」として、9月1日の明代の行動を次のように伝えている。

「1日午後は書類送検された窃盗容疑事件で弁護士と打ち合わせをしたあと、7時前(筆者注=19時前)、東村山市内の事務所に2人で行った。矢野氏が外出し、9時過ぎに戻ると朝木氏の姿はなかった。」

 この記事の後段部分は、部分的には事実である(「部分的」というのは、矢野がそれ以後、明代が転落死するまでの間に明代とは会っていないという証拠はないということである)。前段は、明代が「自殺するような雰囲気はなかった」と印象付けようとするものと思うが、それが事実であることを裏付ける証拠はない。

『東京新聞』の「矢野市議の話による」記事はかなり詳細である。

「1日午後9時すぎに矢野市議が同市本町の事務所に帰ってきた時、朝木市議のワープロはふたが開き原稿が書きかけの状態で、部屋のクーラーもつけっぱなし。朝木市議からは午後9時15分ごろ『ちょっと気分が悪いので少し休んでから(事務所へ)行きます』と元気のない声で電話が入ったきり連絡が途絶えたという。

 矢野市議によると、朝木市議は3日に高知市で講演するため2日夕には出発する予定だったという。矢野市議は『自殺する気配など全くなかった。殺人事件ではないか』と話している。」

「自殺する気配など全くなかった。殺人事件ではないか」とする矢野のコメントを生のまま掲載している点に違和感を覚える。『東京新聞』はさらに「自殺などするはずがない」とする明代の「後援者」のコメントと、議席譲渡事件以来草の根市民クラブを批判していた市民の「逃げ場がなくなったのだろう」とするコメントを併せて掲載している。『東京新聞』は最後に「自殺」を肯定する市民のコメントを掲載してバランスを取ったが、一般紙としてはめずらしく全体として「自殺」を否定する印象が強い記事である。

 東京新聞の当時の記事に論評を加える意図はないが、矢野が事務所に戻ってきたときの室内の状況を、矢野が主張するまま、この時点でここまで詳細に取り上げる必要があったのだろうか。矢野のこの説明が、「自殺するはずがない」ことを主張しようとするものであることを記者は感じたはずである。その上で記事化する判断をしたということだろう。

 この『東京新聞』と『朝日新聞』の記事は9月2日に取材したものだから、矢野には記者会見の時点でマスコミに配布したメモ以上の詳細なストーリーが出来上がっていたということになろう。恐るべき特異性というべきである。

 だが、それ以上に恐ろしいと痛感させられるのは、明代は万引き事件で書類送検されていた事実があり、東村山署が転落現場の入念な捜査と司法解剖までした結果として「事件性は薄い」と発表しているにもかかわらず、それでもなお矢野が、最終的に「自殺」を否定する状況説明をいっさいの疑いも差し挟まない形で一般紙にまで掲載させたということではないだろうか。もちろん、記者会見に集まった記者たちは、東村山署による事務所への立ち入り調査を矢野が拒否した事実など知る由もなかった。

(つづく)
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