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著書紹介

民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒

『民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒』(ユニコン企画発行、長崎出版発売、1200円+税)

現在の“東村山の闇”の原点である議席譲渡事件と女性市議転落死事故についてのルポルタージュ。今は絶版となっていて書店では買えないが、手元に在庫があるので、希望の方はこちらにメールしてください。書籍代+送料でお分けいたします。

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西村修平事件第7回口頭弁論(その4)
代理人をあざ笑う矢野

 現段階で明代の当日の行動を推測できる客観的な材料といえば、「聖教新聞」裁判で矢野が証拠として提出した朝木宅からの発信記録である。それによれば、明代が21時13分に事務所にかけるまでの発信記録は以下のとおりである。

09:26  03-5321-**** 東京  1分35秒
10:00  0473-66-**** 千葉    24秒
10:02  0473-66-**** 千葉  3分58秒
10:07  0473-66-**** 千葉    10秒
11:05  03-5321-**** 東京  1分37秒
11:07  03-5321-**** 東京  5分18秒
11:13       93-**** 東村山    8秒
14:50  0473-66-**** 千葉  1分20秒
14:55  03-3189-**** 東京    44秒
14:56  03-3189-**** 東京    38秒
14:57  03-3189-**** 東京    27秒
15:03       95-**** 東村山   43秒
15:19  0473-66-**** 千葉  6分23秒

 矢野は「草の根」事務所と朝木宅の発信記録を提出したが、いずれも下4ケタが*印になっていて、発信先を確定することができない。余談だが、その点に関する「聖教新聞」裁判での矢野の供述は興味深い。



東京都代理人  ここの通話記録というのは、局番以外は*印で消えてますよね。

矢野  そうですね、残念ながらそれは出ておりませんね。

代理人  これは、あなたの加入電話ですね。事務所の。

矢野  事務所の電話です。95-4535ですから。

代理人  その気になれば、全部番号まで出るんじゃないですか。

矢野  出ません。

代理人  出ない。

矢野  はい。それは、最初に有料で100円か200円か払って毎月送ってくださいというふうにやっていれば出ていたんですが、残念ながらそのときは、事後にNTTにお願いして出してもらったんです。だから下4ケタが出ないんですね。



 平成7年9月1日の朝木宅および草の根事務所からの発信記録は、明代が21:13と21:19に事務所にいる矢野に電話をかけたこと、朝木から「警察に問い合わせてください」と頼まれた矢野が21:33に東村山署などに電話したと主張していることなどを立証するために提出したものである。

「下4ケタが出ていない」という質問に矢野は「そうですね、残念ながら」と答えた。発信先の下4ケタが出ていれば、どこに電話したかが確実に立証されるわけだから、「残念ながら」という矢野の回答は字面だけを見れば必ずしも不自然ではない。

 しかし同じ文言でも、表情や調子によって、その意図する内容は異なってくる。たとえば東村山署の記録では、矢野が警察に電話したのは翌9月2日0:29で21:33ではない。下4ケタまで記録されていれば、矢野の主張が事実と異なることは明白となる。東京都代理人の「下4ケタが出ていない」という質問は、「下4ケタが出ていないものを提出したのは意図的なのではないか」というニュアンスが込められている。

 一方矢野としても、下4ケタの記録があれば、たとえば21:33の下4ケタが「0110」となっていれば、確かにその時刻に電話したのは朝木宅ではなく東村山署だったことが証明される。したがって、仮に21:33に電話したとする矢野の主張が事実なら、下4ケタが記録されていないことは矢野にとっても「残念」なことということになる。朝木宅も東村山署も市内局番は「93」で、この発信記録では東村山署ではなく朝木宅にかけたものであるという可能性を否定できない。

 ところが「そうですね、残念ながら」と答えた矢野の口調は、自分の主張の正しさを証明できなくて「残念」というものではなく、東村山署がその主張を証明できなくて「残念だったな」と、東京都代理人をあざ笑うものだったのである。「真相究明」をしようとする者の姿勢とは思えなかった。

朝木宅からも松戸に3度発信

 さて、朝木宅の発信記録を見ていくと、午前中の発信は東京に3回、千葉に3回、東村山市内に1回である。東京の電話番号は、下4ケタはわからないものの、「5321」は東京都庁の代表電話に一致している。

 午前中の発信記録のうち、注目されるのは千葉の3回である。1回目は24秒、3回目はわずか10秒だから、実際に会話したのは1回だけとみられる。ただ、最初に続けて2度かけて会話を交わした直後に再度かけているところをみると、なにか伝え残したことがあって急いでかけ直したもののようにも感じられる。

 千葉といえば当然、朝木が松戸でひと月のうちに3度目の移転をしたマンションだろう。朝木は陳述書(「創価新報」事件)で「9月1日の午前、勤務先から、私は、東村山の実家に電話をかけ、母にその日の予定を伝えました。」と記載しているから、最初の発信時刻が10:00ちょうどであることを考えると、あるいは発信先が朝木の勤務先だった可能性もある。すると、朝木が自宅にかけたのとは別に、明代の方からも千葉にいる娘に電話をかけていたのだろうか。

 午前中の朝木宅からの発信は11:13に東村山市内にかけたのが最後で、その後14:50まで発信がない。矢野と朝木によれば明代は昼前に東村山市議会に陳情書を提出したというから、11:13以後に外出したとすれば、その後4時間近く発信がないことは不自然ではなかった。

(つづく)

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西村修平事件第7回口頭弁論(その5)
明代の「アリバイ」

 乙骨正生の『怪死』には時系列で明代の行動が記載されている。当然、矢野の説明に基づくものと考えられる。『怪死』によれば、明代の動きは以下のとおりだった。

11:30  東村山市議会事務局に陳情書を提出。
12:30  「草の根」事務所で矢野と合流、都庁へ。
13:30  都庁で小坂渉孝(「草の根」支持者で、万引き被害者への威迫行為に加担した人物)と合流し、東京都議会事務局に陳情書を提出。引き続き、都庁記者クラブで資料を配布。
13:55  知事室秘書事務担当課長と面談。その後、小坂と別れ、表参道の都立青山病院へ。
15:00  弁護士と打ち合わせ。約2時間。
17:00  病院を出る。
17:30  新宿到着(矢野の説明)。サブナードで夕食。
18:20  急行に乗り東村山へ。

 乙骨の記載内容は矢野の説明となんら矛盾しない。これによれば、明代は12:30に矢野と合流したあと夕方まで自宅には帰っていないことになる。

 では、14:50以降15:19までの6回の発信記録との整合性はどうだろうか。矢野と朝木の説明が事実とすれば、もちろんこの間ずっと「外出していた」明代にはアリバイがあることになり、明代が自宅から電話をかけることはできない。

 しかし千葉の準備書面によれば、「矢野氏が主張する『朝木市議が弁護士と面会した』とされる時間帯に朝木市議は自宅にいた形跡」があるという。あえて「弁護士と面会した」時間に限定しなくても、矢野の説明では明代は昼過ぎから午後7時まで矢野と同一行動をとったことになっているから、14:50以降15:19までの間に自宅から電話をかけることは不可能である。

 すると千葉がいう「矢野氏が主張する『朝木市議が弁護士と面会した』とされる時間帯に朝木市議は自宅にいた形跡」とはどういうことなのだろう。矢野と朝木の説明のかぎりでは、発信記録に残された14:50以降15:19までの6回の発信記録は明代によるものではない。つまり矢野と朝木によれば、この6回の発信記録はいずれも明代以外の自宅にいた者、すなわち弟によるものということになる。

 しかし逆に、この時間帯に弟が外出していたとすればこの前提は崩れ、電話することができたのは明代しかいない。千葉のいう「矢野氏が主張する『朝木市議が弁護士と面会した』とされる時間帯に朝木市議は自宅にいた形跡」とはそういうことなのだろうか。

弟の説明

 では、その日の弟の動きはどうだったのか。朝木は陳述書(「創価新報」事件)と『東村山の闇』に次のように記載している。



「9月1日は金曜日で、弟が車で自宅の東村山市内から、勤めを終えた父と私を迎えに来ることになっておりました。――略――
9月1日の夜、弟の車で松戸市を出発したのは午後8時半ころでした。」(以上、陳述書)

「私の仕事が終わったのが6時。7時に仕事を終える父を迎えにいくまでの間、私と弟はコンビニなどで買物をした。」(『東村山の闇』)



 朝木によれば、車で東村山から松戸までの所要時間は約2時間である。これらの記載からは、弟は遅くとも6時には松戸に到着したようだから、午後4時前後には自宅を出たものとみられる。するとやはり、14:50~15:19の間に弟が自宅から電話することは十分に可能である。

 朝木宅の発信記録を見ると14:50(1分20秒)と15:19(6分23秒)の2度、松戸に発信されている。発信先は朝木とみられるが、通話時間からみていずれもなんらかの会話があったようである。車で松戸に朝木と父親を迎えに行った弟が東村山を出る前に朝木に電話したとしてもなんら不思議はない。

 しかし、出発直近の15:19の記録は待ち合わせの場所や時間等を打ち合わせるために弟がかけたものかもしれないが、約30分の間に弟が2度も電話したのだろうか。弟は平成7年9月25日、東村山署の事情聴取に応じており、9月1日の行動についても説明しているという。

 千葉によれば、弟の説明の中に、9月1日の明代の行動を推測させる興味深い供述があった。

「その日、私が自宅から電話をかけたのは、松戸に出発する前の1度だけでした」

 事情聴取で弟はこう供述しているというのである。「松戸に出発する前の1度だけ」とは、15:19の電話は弟がかけたものだが、それ以外はすべて明代がかけたものであるということを意味する。

 弟の記憶が正しければ、14:50から15:03までの発信者は明代ということになる。午前中に朝木に電話していた明代は、14:50にも娘に電話していたのだろうか。14:55~14:57の同一番号への発信先はポケベルとみられる。相手が誰かはわからないものの、直後の15:03には東村山市内(95-****)に電話をかけている。当時の「草の根」事務所の電話番号は95-4535である。この発信先が「草の根」事務所だったとすれば、この43秒という通話時間は何を意味するだろうか。

 いずれにしても、弟の説明と発信記録からは、明代が午後3時から始まった弁護士との打ち合わせに同席することは不可能である。あるいは明代は、打ち合わせの途中から参加したのだろうか。仮にそうなら、最初からそう説明すればいいだけのことである。しかし、矢野と朝木がそのような説明をした事実はない。

 矢野と朝木は、明代は転落死当日も東京都に陳情書を提出するなどむしろ精力的な活動を続けており、9月4日に予定されていた東京地検の事情聴取についても何の不安も持っていなかったと説明している。しかし弟の供述内容が事実なら、矢野と朝木の説明とは異なり、自宅で頻繁に電話をかけている明代の光景が浮かんでくる。

(つづく)
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西村修平事件第7回口頭弁論(その6)
 弟の供述と朝木宅の発信記録からは明代が複数回朝木に電話をかけていることが推測できる。しかし、朝木の陳述書にも『東村山の闇』にもなぜか、明代から電話がかかってきたとする記載はどこにもない。

 明代から電話がかかったとすれば、それはどんな内容だったのか。その内容は「真相」を究明する上で重要だと思うが、『東村山の闇』にも陳述書にもそれをうかがわせる記載がないということは、やはり明代からの電話はかかっていないということなのだろうか。その答を導くカギは、朝木が感じたという「胸騒ぎ」にあるような気がする。

出発直後から始まっていた「胸騒ぎ」

 朝木は陳述書(「創価新報」事件)で、自宅に午前中に電話した際、明代は「孫たちには、何かお土産をみつけて買ってきてあげたいよね」などと話していたと供述し、『東村山の闇』では「母は明日のシンポジウムのレジュメをつくらなければならないので、夜は事務所で仕事をしなければならないと言い、3人で食事をしてくるほうが助かると笑っていた。」と記載している。つまり朝木によれば、午前中に交わしたとする会話の内容は、母親の身に取り立てて何か異変や危険が迫っていることを感じさせるようなものではなかったようである。

 ところが『聖教新聞』事件における朝木の供述によれば、帰宅途中に所沢でファミリーレストランに立ち寄った際、母親が自宅にも事務所にもいないことを知った朝木はレストランに弟と大統を残したまま1人で自宅へ急いだという。そのときの心境について朝木は「いま思えば、虫の知らせだったのかなという気もいたします」と供述している。しかし、朝木が『東村山の闇』で述べる母親の身に対する不安は「虫の知らせ」などという曖昧な感覚ではなく、もっと現実的で切迫したもののように感じられる。



(買物をして)それから父を迎えに行って車に乗った。さてどこで食事をしようかということになったとき、なにか薄ら寒い胸騒ぎが下の方からワジワ(ママ)と湧き上がり、打ち消しても打ち消してもからだ全体に広がっていった。
「家の近くまでいきましょうよ」
所沢あたりで食事をしようと決め、私は車を出した。胸騒ぎは収まらない。
「早く帰りたい。早くしなきゃ」
 なにかがそう叫んでいる。――略――
 ノロノロと走っている車がいるとイライラした。――略――
 この胸騒ぎはなんだろう。――略――
(レストランに着いて)すぐに自宅に電話したが出ない。もう事務所に向かったのかと思い、再度事務所に電話したがまだ来ていないという。
 胸の鼓動が耳まで響くようだった。胸がつまってくるような感じがして、足元がゾッと寒くなった。



 朝木の「胸騒ぎ」は、明代が自宅にも事務所にもいないことがわかったあとではなく、松戸を出発するときからすでに始まっていたのである。何かがなければ「胸騒ぎ」を覚えることはあるまい。とすれば、この「胸騒ぎ」は何か具体的な理由に基づくものだったのではないだろうか。朝木の「胸騒ぎ」とは具体的にどういうもので、その原因は何だったのだろう。

 朝木が午前中に明代に電話した目的は「翌2日の出発に備えて自宅に泊まることにしていたので、母の予定を聞いておきたかった。」(『東村山の闇』)からだという。ただ、朝木の陳述書と『東村山の闇』の記載には若干の齟齬がある。陳述書(前回参照)では「9月1日の午前、勤務先から、私は、東村山の実家に電話をかけ」と述べているが、『東村山の闇』では「私は松戸のアパートから母に電話した。」となっている点がややひっかかる。

 朝木が母親に電話したのは「アパート」からだったのか「勤務先」からだったのか。たんなる記憶違いにすぎないのかもしれないが、法廷での証言なら電話をかけたこと自体の信憑性を疑われることになりかねない。朝木が明代と交わした会話は、発信記録にある明代からの電話だけで、朝木からかけたものではなかったのではないかと疑われてもやむを得ないということである。その場合には当然、朝木が述べる明代が話したとする内容そのものも疑われることになろう。

「胸騒ぎ」の原因

 いずれにしても、松戸を出発した直後に始まったという「胸騒ぎ」について朝木が繰り返し述べていることを考えると、朝木が「胸騒ぎ」を覚えたことは疑いのない事実である。とすれば、午前中に明代と話をした時点で朝木がすでに「胸騒ぎ」を覚えていたのなら、その時点の話として触れなければおかしい。たとえば、「午前中に母と話したとき、私は何か突き上げるような胸騒ぎを覚えた」と。

 しかし、朝木の陳述書や『東村山の闇』のどこを探しても、朝の電話の時点で朝木が「胸騒ぎ」を覚えていたこと、あるいは「胸騒ぎ」までいかなくても、その兆候をうかがわせる記載はいっさいない。つまり、朝木が記載する午前中から松戸を出発するまでの経過をたどると、朝の電話の時点で朝木はまだ、「一刻も早く帰らなければ」と思うような「胸騒ぎ」は感じていなかったと理解できるのではないだろうか。

 その朝木が、松戸を出発する時点になると「なにか薄ら寒い胸騒ぎ」に襲われたという。この劇的な変化は何を意味するのか。朝木自身の記載に沿って考えれば、朝木の「胸騒ぎ」の原因は、午前に朝木が自宅に電話して以降、松戸を出発するまでの間に生じたと考えるほかない。

 朝木宅からは午前中に3度(通話は1度)、午後には14:50(1分20秒)と15:19(6分23秒)の2度、松戸に発信した記録がある。発信記録および弟の供述内容、そして朝木自身の「胸騒ぎ」についての記述の経過を総合すれば、この5回の発信のうち、いずれかの会話が朝木の「胸騒ぎ」を引き起こしたと考えるのが最も自然である。その内容とは転落死の原因(あるいは動機)と密接に関わるものだった、ということではなかったのか。

(つづく)

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西村修平事件第7回口頭弁論(その7)
「拉致」を考えなかった朝木

 松戸を出発した直後に沸き上がっていた朝木の「なにか薄ら寒い胸騒ぎ」は、朝木自身の記載の経過などによれば、朝木が午前中に自宅に電話したあとから松戸を出発するまでの間にあった何かによるものとみられる。

「胸騒ぎ」の原因が仮に明代が何者かに命を狙われる可能性を示すものだったとすれば、「他殺」を主張する朝木が言及しないはずがないし、真っ先に東村山署の事情聴取に応じていなければならないが、朝木は1度も事情聴取に応じていない。朝木が松戸を出発した直後から「早く帰りたい。早くしなきゃ」(『東村山の闇』)と追い立てられるほどの「胸騒ぎ」の原因とは何なのか。

 朝木は「聖教新聞」裁判における尋問で、レストランに大統と弟を残して1人で自宅に急いだ理由について次のように供述している。



東京都代理人  あなたの陳述書によりますと、お母さんである明代さんは、その事件があった平成7年9月1日までは非常に元気であった、それで万引き事件とは悩むどころか闘う姿勢であったと、こういうことですね。

朝木  そのとおりです。

代理人  あなたは、その亡くなられる当日、10時過ぎに所沢のファミリーレストランで原告の大統さんだとか弟さんと食事をされていたわけですね。

朝木  はい。

代理人  で、自宅に電話したけれどもお母さんはいないと、それで事務所に電話したら。――略――

朝木  事務所に電話をしまして、矢野さんに母を出してくださいといったところ、「お母さんは気分が悪くて、自宅のほうにいると思いますよ」といわれましたので、それから自宅にかけました。

代理人  それで、いないということで、あなたは所沢から、お父さんの大統さんと弟さんを置いて、1人で自分の自宅のほうに来るわけですね。

朝木  そうです。

代理人  どうして、そんなに急いでいたんですか。

朝木  いま思えば、虫の知らせだったのかなという気もいたしますけれども、私の母は非常に健康ですし頑張り屋ですので、家で夜とか以外に、まだ仕事をしている時間ですから、9時、10時というのはいつも。その時間に自宅で休むというのは、私はよっぽど具合が悪いと思ったんです。それで電話をしてもいないから、もしかしたら起きられないような状況になっているんじゃないかと思って、それで私は飛んで帰ったんです。

代理人  では、別に拉致されたとか、そういうことじゃなくて、体調が悪いと。

朝木  そのときはわかりませんから、矢野さんから、気分が悪くて休んでいるというふうにいわれて、家に電話をしてもいませんから、当然いろんな嫌がらせがありましたから、万が一変な事件に巻き込まれているかもしれないという思いも、もちろんありましたし。




 父親と弟をレストランに残して1人で帰宅を急いだ理由について朝木はここで、「事務所にも家にもいなかったこと」「よっぽど具合が悪いと思った」と述べている。重要なのは、このとき朝木の念頭にあったのが外的要因(拉致など)ではなく明代自身の心身の問題だったということである。「万が一変な事件に巻き込まれているかもしれないという思いも、もちろんありました」というのは、事後にとってつけた話にすぎない。

 尋問では松戸を出発した時点で感じていた「胸騒ぎ」についてはまったく触れていないが、事務所と自宅に電話して明代がいないことを知ったというだけで朝木が帰宅を急いだのは、すでに「胸騒ぎ」を感じていたからだと考えれば納得がいく。朝木は明代に関してなんらかの「不安」をすでに持っており、明代の不在の原因もその延長線上にあることを直感したということだろう。そうでなければ、夜の10時という時間に所在がつかめなかったからといって、ただちに安否を気づかうということにはなるまい。

1人で帰った事情

 余談だが、朝木はなぜ父親と弟をレストランに残したまま1人で帰宅を急いだのかと疑問に思われる読者もいよう。東京都代理人も不思議に思ったようである。その点に関する朝木の供述をみよう。



東京都代理人  どうしてお父さんだとか巌さん、弟さんも一緒に、そんなに心配であれば食事しないで、あなたと一緒に自宅のほうに来なかったんですか。

朝木  それは、私と私の父と弟と3人で行ったんですが、2人がオーダー、私は適当に何でもいいから頼んでおいてくれということで電話をかけにいきまして、それで2人はもうオーダーを頼んでおりましたので、それと父が目が悪いのと体が悪いので、急いで何か行動を起こすときというのは、とりあえず何かあったか、なかったのか、もしかしたら、ただたんに電話に出るのが面倒くさくて出ないかもしれないということだってあるじゃないですか。ですから、とりあえず、まず私が家に確認しに行こうという気持ちです、それは。

代理人  そうすると結局、足が、お父さんと弟さんはなくなっちゃうわけですね。

朝木  そうです。

代理人  結局、タクシーで来られたんでしょ。

朝木  もう、家に帰っていなかった時点ですぐに弟のポケットベルを呼んで帰るようにいいました。

代理人  それだったら、一緒にあなたと行ってもよかったんじゃないかと思うんですが。

朝木  行ってもよかったかもしれませんけども、そのときには、そういう選択をしたんです。



 朝木が松戸を出発した時点ですでに「早く帰りたい。早くしなきゃ」と思い詰めていたのなら、レストランなどに寄らず、まっすぐ帰宅すればいいではないかとも思うが、「胸騒ぎ」を感じていたとしても、すぐになんらかの不測の事態が発生するとまでは考えなかったということだろう。ところが、レストランで明代の消息不明を知って、朝木は明代自身の事情によって何かが起きたかもしれないと感じた。

 ただそれにしても、それなら一緒に帰ればよかったのではないかと考えても不思議はない。朝木自身も「行ってもよかったかもしれませんけども」と供述しているように、父親と弟がすでにオーダーしていたことが1人で帰った理由ではないのではないか。

 実は、レストランには父親と弟のほかにもう1人いたフシがあり、そのもう1人の存在が朝木を1人で帰らせた1番の理由だった可能性もあると私はみている。

(つづく)

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