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民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒

『民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒』(ユニコン企画発行、長崎出版発売、1200円+税)

現在の“東村山の闇”の原点である議席譲渡事件と女性市議転落死事故についてのルポルタージュ。今は絶版となっていて書店では買えないが、手元に在庫があるので、希望の方はこちらにメールしてください。書籍代+送料でお分けいたします。

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朝木明代転落死・鍵隠蔽事件 第8回
バッグに触れない不思議

 自殺直前の明代のバッグに関する目撃証言は、明代がいつ事務所にバッグを置いたかを特定するにあたってきわめて重要である。ところが矢野が「事務所からの拉致」を否定して以降、矢野にとって自殺当夜の明代の目撃証言、とりわけバッグに関する証言を確認されることはあまり好ましいことではなくなったように思える。『東村山の闇』でも、明代の目撃証言は最小限の情報しか記載されていない。



(『東村山の闇』における明代の目撃証言)

 ……矢野さんは予定されていた多摩湖町での「自治会長会議」へでる。それが7時。そのあと母(筆者注=明代)はいったん家へ帰る。……

・7時半すぎ、自宅へ向かう母を見かけた人がいる。
・8時半、事務所へ向かう母をみかけた人がいる。
・9時10分過ぎに矢野さんが事務所に帰る。



『東村山の闇』におけるこの記載部分はわざわざゴシック体で目立つように印刷されている。にもかかわらず、この記録には重要な目撃証言が記載されていないのである。

 朝木はなぜ『怪死』や『週刊文春』にはあった「カバン」の目撃証言に触れないのか。きわめて不可解というほかないが、実の娘である朝木がこれほど重要な事実を無視するとは、「真相究明活動」をしてきたにしてはあまりにも軽率ではあるまいか。

 自殺当夜の朝木明代の目撃証言を時系列で丁寧に整理しながら、バッグの目撃証言に関してだけは、朝木はなぜ割愛あるいは無視したのだろう。本連載第7回までにみてきたように、矢野が明代のバッグの中身を調べた事実とその行動の特異性(異常性)からみて、矢野が事務所に帰った午後9時10分ごろに明代のバッグがあったとする矢野の説明は不自然である。

 むしろ明代は矢野が事務所に帰ったときよりももっとあとの時間帯にバッグを事務所に持っていった可能性がある。その点に疑問を持たれるのを避けるために、朝木はあえてバッグの目撃証言を割愛ないしは無視したのではないかとさえ思える。そうでなければ、「真相究明活動」をしているはずの実の娘がこれほどずさんな事実整理をすることは通常では考えにくい。

鍵がないことを知っていた矢野

 千葉は明代の鍵について、西村修平との裁判で「鍵は現場検証後に置かれたものである」と述べた。すると矢野は「鍵が現場検証後に置かれたということは、明代が自分で置いた(落とした)ものではなく第三者が置いたということであり、明代の転落死が殺人事件である証拠」と主張した。

 しかし矢野のこの主張は、明代の転落死にまつわる他のいっさいの事情を無視して鍵発見の状況だけを見ても、それだけでただちに明代が何者かに殺されたと断定するには拙速のそしりを免れないのではあるまいか。当時の明代を取り巻く状況と当夜の目撃証言、明代の会話の状況、現場の状況などあらゆる観点から総合的に判断すべきであり、矢野のように結論を急ぐべきではあるまい。

 むしろ鍵発見以外の状況は明代が自殺をはかったことを示している。すると鍵については、何者かが捜査を攪乱するために置いたものではないかという推理さえ成立しよう。千葉はそうみていた。

 自殺現場に鍵を隠した人物は明代の鍵に触れる機会があった者であり、その機会があった者は限られる。これまで見てきたように、自宅にいた明代は夜9時19分に事務所の矢野に電話したあと午後10時前に事務所に行った可能性があるのではないかと考えることに合理性がないとはいえない。すなわち、明代がバッグの中に鍵を入れていたとすれば、バッグの中身を調べた矢野は現場から出てきた鍵に触れることができたということになる。少なくとも矢野は明代の鍵に触れる機会があった可能性を持つ人物の1人である。

 矢野にはもう1点、「鍵がない」といいながら実は矢野は明代の鍵の行方を知っていたのではないかと疑わせるに十分な事実があった。矢野は明代の鍵がないことが確認できる状況となる以前に鍵がないことを知っていたのである。

 この種の事件においては通常、何があって何がないかがほぼはっきりするのは、事情聴取や現場検証、捜索等を終え、着衣や所持品、遺留品などが遺族に返還された時点か、少なくともそれよりもあとである。ところがジャーナリストの乙骨正生は『怪死』において、検死前の時点の話として矢野が「履いていた靴がなく、所持していたはずの鍵も見つからないなど不自然かつ疑問点が多い」などと説明していたというのである。

 矢野自身も、初動捜査終了直後の現場の状況について「東村山市民新聞」にこう記載している。



 カギ束・靴など朝木明代議員の所持品が未発見ということが知られていたから、報道だけでなく、一般市民も現場階段を多数が上り下りし、……



 警察はその時点では鍵がないことなど知らない。すると、一般市民までが知っていたかどうかは別にして、マスコミが靴だけでなく鍵もないことを知っていたとすれば、その情報源は乙骨には同じ話をしていた矢野以外にはない。

 転落現場で鍵が発見されなかったことについて矢野と朝木は『東村山の闇』で次のように述懐している。



(『東村山の闇』の記載)

 9月3日は通夜の日だった。午前、東村山警察署に長女の直子さんと次女の淳子さんらと朝木明代さんの遺品を受け取りに出かけた。

 衣類と腕時計しかなかった。持っていたはずの事務所の「鍵束」はなかった。靴もなかった。



 本来なら矢野はこの時点で、明代が事務所の鍵束を所持していなかったことを明確に認識したことになる。ところが矢野は9月2日、遺品も返してもらっていない段階で、明代が鍵を持っていないことを知っていた。矢野はなぜ明代が鍵を持っていないことを知り得たのだろうか。当然、鍵を隠匿した本人だからという推論も成立し得よう。

誰からも疑われない人物

 ところで矢野は、鍵が警察の捜索後に置かれたことを追認した上記「東村山市民新聞」の記事で次のように続けている。



 しらみつぶしのように大々的な「捜索」がなされたが、発見できなかったのである。そのとおりだ。大勢の報道関係者らが、行きかうあの階段で、人目につかず、「『カゴ』に入った使用済みのおしぼりの間」に、あの派手な「鍵束」を入れる芸当は簡単ではないはずだ。



 鍵がおしぼりの間に入れられた状況を再現するかのような臨場感あふれる記述である点できわめて興味深い。おそらくこの推理はほぼ当たっているのではないかと私も思う。あの狭い現場には「大勢の報道関係者」のほかに矢野も朝木も、その他の関係者もいたはずである。

 そのような現場で仮に「犯人」が鍵を隠そうとすれば、何もしなくてもその場所にいるだけで人目につこう。これこそ矢野と朝木が好む「不審者」である。ところが「捜索」の現場でそのような「不審者」がいたという情報はいっさい存在しない。

 すると考えられるのは、鍵は「捜索」の現場に立ち会っていても誰からも不審に思われない人物によって隠された――こうみるのが最も合理的なのではあるまいか。

 あらためて整理すると、鍵を現場に隠したのは、「鍵を入手できる可能性があった人物」「鍵がなくなっていることを当初から知っていた人物」、さらに「転落現場で遺留品を捜索していても誰からも不審に思われない人物」――この3つの条件を満たす人物ということになろうか。

(つづく)

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朝木明代転落死・鍵隠蔽事件 第9回
1人で自宅に急いだ朝木

 明代が転落死を遂げた平成7年9月2日早朝「鍵がない、靴がない」と騒いだ矢野と朝木は、少なくとも彼らには明代が自殺するなど考えられず、また明代にそんな言動や兆候も感じてはいなかったとも説明していた。ところがその説明に反して矢野は、明代のバッグの中を覗くといった通常では考えられない行為、言い換えれば矢野は明代の異状について何かを知っていたことをうかがわせる行動をとっている。

 矢野だけでなく朝木にも、少なくとも「母親は万引きによる書類送検によって精神的にかなり追い詰められている」と認識していたフシがある。

『怪死』によれば矢野は、午後10時少し前(『怪死』の記載。『東村山の闇』における矢野の記載では「10時すぎ」となっている)に朝木直子からかかってきた「母はいますか」という電話に「気分が悪いので休んで行くといっていたから、家にいるんじゃないの」と答えた(『東村山の闇』における朝木の記載も同内容)。ちょうど東村山駅前の住民が「ドスン」という大きな物音を聞いた時間帯である。

 朝木は父親、弟らとともに車で松戸から東村山に向かっている途中で、食事をしてから帰ろうと所沢のレストランに入ったところだった。矢野の回答の限りにおいて、明代の身に不測の事態が起きているとは考えにくかろう。しかし、朝木は続けて自宅に電話をかけ、明代が自宅にもいないことを知るや、父親と弟などをレストランに残し1人で自宅に向かった。

 それから先の朝木の行動は、明代がもはや平常な状態にはないことすなわち自殺の可能性を想定したもののように思える。事実はどうだったのか。『聖教新聞』事件で東京都代理人は平成11年11月15日、朝木に対する尋問をまずこの点から始めている。



東京都代理人  それで(事務所にも自宅にも)いないということで、あなたは所沢から、お父さんの大統さんと巌さんを置いて、1人で自分の自宅のほうに来るわけですね。

朝木  そうです。

代理人  どうして、そんなに急いでいたんですか。

朝木  今思えば、虫の知らせだったのかなという気もいたしますけれども、私の母は非常に健康ですし……まだ仕事をしている時間ですから、9時、10時というのはいつも。その時間に自宅で休むというのは私はよっぽど具合が悪いと思ったんです。……もしかしたら起きられないような状況になっているんじゃないかと思って、それで私は飛んで帰ったんです。

代理人  では、別に拉致されたとか、そういうことじゃなくて、体調が悪いと。

朝木  ……家に電話をしてもいませんから、当然いろんな嫌がらせがありましたから、万が一変な事件に巻き込まれているかもしれないという思いも、もちろんありましたし。

代理人  どっちなんですか。

朝木  いや、それは両方ですよ。……



 朝木は「午後の9時、10時というのはいつも仕事をしている時間だから、母が家で休むというのはよほど具合が悪いと思った」という。平成11年当時の供述では、母親の予定についての認識は曖昧だったようにみえる。ただ、何かあったのではないかという「虫の知らせ」があったと。

 しかしそれから4年後に出版した『東村山の闇』では、朝木の母親の予定についての認識は平成11年当時と異なる。朝木は『東村山の闇』ではこう記載している。



 その日の朝、私は松戸のアパートから母に電話した。……母は明日のシンポジウムのレジュメをつくらなければならないので、夜は事務所で仕事をしなければならないと言い、3人で食事をしてくるほうが助かると笑っていた。



 事実に対する記憶を述べるにあたり、事実から近い時点よりも遠い時点の記憶の方が鮮明に語られるとは、「真相究明活動」を続けてきた本人にしてはやや不可解である。

「市内の細かいことは知らない」

 朝木が「母親は万引きによる書類送検によって精神的にかなり追い詰められている」と認識していたのではないかと疑われる供述はほかにもまだある。尋問に戻ろう。



代理人  ……矢野さん自身は、そんなにキャッチホンの声を聞いても、それほど鑑定にあるように生命の危機に瀕したというようなことは感じなかったというふうにおっしゃっていますよね。

朝木  はい。

代理人  それなのに、あなたが戻ってきたのは、やはり虫の知らせということですか。

朝木  ですから、丈夫な母が、非常に気丈な母が、仕事中に気分が悪くて家で休むほどの状態というのは、よっぽど具合が悪いと、私はまず思って、家に電話をしました。そしたら、家に電話をしても出ないから、起きられないほど具合が悪いのか、あるいは、やっぱりその前に、家の門柱に放火までされておりますから、いろんな不穏な嫌がらせを受けておりましたので、それはそういう不安と一緒になって、とにかく家に帰らなくてはと思うのは、自然の感情ではないですか。

代理人  この日の前日に、先ほどもちょっと話を出しましたけれども、明代さんが市長の車にはねられそうになったというようなことを、あなたはご存じですか。

朝木  いえ、そういう話は聞いておりませんし、私は当時、松戸のほうに住んでおりましたので、その市内の細かいことについては、ちょっと私に聞かれてもわかりません。



 朝木宅の「門柱に放火された」と「いろんな不穏な嫌がらせ」などは市内のきわめて細かいことであると思うが、それについてはよく知っていたらしい。ところが、明代が市長の車にはねられそうになったことについては「市内の細かいこと」だから知らないという。これほどはっきり前言と矛盾する発言も珍しかろう。

 明代が車にはねられそうになった事実は、万引きで追い詰められた明代が異常な精神状態になっていたことをうかがわせる重要な事実である。明代にとって都合の悪い話だから、娘にも隠していたのだろうか。

(つづく)

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朝木明代転落死・鍵隠蔽事件 第10回
地検への出頭を知っていた朝木

 東京都代理人の次の質問に対しても朝木は、明代が市長車にはねられそうになったことを聞かれた際と同様あるいはそれ以上の過敏な反応をみせた。続く尋問をみよう。



東京都代理人  それでは、明代さんが(平成7年)9月5日に東京地検の地方検察庁の方に出頭を要請されていたと、9月5日に出頭するようにということを、あなたは知っていましたか。

朝木  5日かどうかは覚えておりませんけども、地検でも当然書類送検をしたあとに取り調べがあるということは聞いておりましたけれども、なにせ私は住まいが別だったもので、そういう活動自体の中に入っておりませんでしたので、ちょっとそういう市内とか活動の面の細かいことについてはちょっと聞かれても、はっきりと答えかねます。



 東京都代理人がここで明代の東村山での活動のことなどを聞いたわけでないことは誰がみても明らかである。「市内とか活動の面の細かいことを聞かれても」などという朝木の供述は質問の趣旨からかなりずれている。朝木は転落死当時に明代が置かれていた状況の核心を突かれて動揺し、必死にはぐらかそうとしたのではあるまいか。

「5日かどうかは覚えておりませんけども」と供述したということは、朝木は明代が東京地検から呼び出しを受けた事実、およびその日時を聞いていたということである。母親の最終的な処分に直結する重要な取り調べの日にちを忘れるはずがないと思うが、朝木はあくまで地検の取り調べを苦にしてはいなかったように取り繕いたかったのではあるまいか。

 朝木の供述によれば、当然、それを聞いたのは明代が死亡する以前のことで、わずか数日前のことである(朝木は東京地検での取り調べがあることを聞いたのが明代の生前であることを前提に述べていることが明らかである)。つまり朝木は9月1日の時点で、明代がきわめて厳しい状況にあることを十分に認識していたということになる。

 これまでの尋問で朝木は、母親が当時、万引きで追い詰められた状況であると認識していた様子をあまり表に出さなかった。しかし尋問から4年後の平成15年11月に出版した『東村山の闇』における記述は尋問での供述とはやや趣がことなる。理由は別にして、『東村山の闇』には平成7年9月1日、松戸から東村山に向かったときの朝木の心境がかなり詳細に記録されている。たとえばこんな記述がある。



(松戸を出発して)さてどこで食事をしようかということになったとき、なにか薄ら寒い胸騒ぎが下の方からジワジワと湧き上がり、打ち消しても打ち消してもからだ全体に広がっていった。



 平成11年の尋問では父親と弟らをレストランに残して1人で自宅に帰った理由について朝木は「虫の知らせ」と表現したが、『東村山の闇』では「胸騒ぎ」となっている。千葉は「『胸騒ぎ』とは具体的な理由があってのもの」と推測している。

すでに始まっていた「胸騒ぎ」

 では朝木の覚えた「胸騒ぎ」の具体的な理由とは何だったのか。それを知る手がかりは『東村山の闇』における上記記載の中にある。平成11年の尋問の時点では、明代が事務所にも家にもいないことがわかって「すぐに家に帰らなくてはとものすごく不安な気持ち」になったと朝木は供述している。ところが『東村山の闇』では、事務所に電話する前から朝木がすでに「胸騒ぎ」を覚えていたことを明確に述べている。

『東村山の闇』によれば平成7年8月下旬に次のような「殺害予告」があり、それが「胸騒ぎ」の原因となったと朝木は主張しているようである。『東村山の闇』の記載をみよう。



「放火」事件の後は、しばらくの間「ポケベル」のカウントアップがなかった。母に電話を架けて「そのこと」を話し、「4・4・4……」もたいしたことはなかったわね。その程度の嫌がらせしかできない程度の思考力の連中なのよ、と話したら、途端に1時間後から、また「カウントアップ」が始まった。

 それは時計が八月三一日の深夜一二時をまわった翌朝まで、つまり事件の日の早朝まで続き、事件後はピタリと止んだ。



 その数行後には、〈その会話(筆者注=朝木が9月1日に明代と電話で交わした会話)が盗聴されていたのだろうか。〉という一文もある。ちなみに朝木がここでいう「放火」事件とは、もうとっくに陽の上がった時間帯に門柱の上で新聞紙が燃え、発見者の明代は110番はしたが消火はしなかったという興味深い行動をとったという事件であり、当然、犯人はいまだ判明していない。

 朝木のポケベルに打ち込まれたという「4・4・4」も「カウントアップ」も第三者によるものとはいまだ客観的に証明されていない。そもそも朝木のポケベルの番号を無関係の第三者がどうやって知り得たのかという根本的な疑問がぬぐえない。

 さらに「その会話が盗聴されていたのだろうか」と疑問を呈するに及んでは、いささか冷静さを欠いた荒唐無稽な憶測ではないかとさえ思える。つまり朝木は『東村山の闇』において「胸騒ぎ」の理由について何一つ説明していないに等しかろう。すると朝木が感じていた「胸騒ぎ」の本当の理由は、実際にはほかにあるとみていいのではあるまいか。

 朝木の「胸騒ぎ」の理由が、明代の周辺で続いていたとする嫌がらせなどにあったのなら、朝木はなぜ東村山署に出頭し、具体的に被害を訴えなかったのだろう。東村山署は朝木に対して再三事情を聞かせてくれるよう要請したものの、朝木はついに姿をみせなかった。父親や弟が素直に聴取に応じているのに、「ポケベルのカウントアップ」や「44444……」という数字の打ち込みといった「被害」を直接知っているはずで、さまざまなメディアを通じて「他殺」を主張していた朝木が警察の事情聴取に最後まで応じなかったのはどうみても不可解なのだった。

(つづく)

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西村・細川事件一審判決(速報)
 ウェブサイトの記事によって名誉を毀損されたなどとして千葉英司元警視庁東村山警察署副署長が「主権回復を目指す会」代表の西村修平を提訴していた裁判で東京地裁立川支部は平成24年1月26日、西村に対して30万円の支払いなどを命じる判決を言い渡した。なお千葉は当初、西村と元側近を提訴していたが、元側近についてはすでに和解により終結していた。

 千葉が問題としたのは、ウェブサイト「主権回復を目指す会」に掲載された平成21年11月2日付〈創価学会が大喜びする宇留嶋の訴訟乱発 創価学会「御用達」は栄えある名誉の筈だぞ! 言論・政治活動の自由をカルト教団から守れ〉と題する記事などである。記事には千葉の写真を掲載した上、〈朝木明代・東村山女性市議の謀殺事件を転落・自殺としたのが東村山署元副署長の千葉英司。自殺の動機を「万引き」を苦にしたとして事件を処理したが、これが限りなくでっち上げに近いことが判明されている。〉との記載があった。

 裁判で西村は、「記事の掲載は元側近の細川がすべて自主的にやったことで自分には責任がない」「万引きをでっち上げたとは断定していない」などと主張したが、東京地裁はこれらの主張をいずれも排斥。損害賠償30万円の支払いとともに、〈これが限りなくでっち上げに近いことが判明されている。〉とのウェブサイトの記載について削除を命じた。

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