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『週刊現代』事件 第1回
 平成7年9月11日に発行された『週刊現代』(同年9月23日号)の記事をめぐり創価学会が発行元の講談社と朝木直子(現東村山市議)、それに朝木の父親大統を提訴した裁判は、東村山デマ関連裁判の中でもとりわけ朝木と矢野穂積(同)の特異性を世に知らしめた事件である。

 記事のタイトルは〈東村山女性市議「変死」の謎に迫る 夫と娘が激白! 「明代は創価学会に殺された」〉。本文には朝木父娘が取材に応じたものと思われる以下のようなコメントがあった。



「まるで坂本弁護士の事件みたいだと思った。絶対に自殺などではありません」

「創価学会はオウムと同じ。まず汚名を着せてレッテルを貼り、社会的評価を落とす。そして、その人物が精神的に追い込まれて自殺したようにみせて殺すのです。今回で学会のやり方がよくわかりました」(以上、朝木直子)

「妻が自殺するはずがありません。創価学会に殺されたんですよ。……妻が万引き事件で逮捕されたことも、学会におとしいれられただけ。万引き事件で悩み、それが原因で自殺したというシナリオを作ったんです」(大統)



 などである。

 裁判は最終的に東京高裁が講談社と記事でコメントした朝木父娘に対して200万円の支払いと謝罪広告の掲載を命じた判決が確定した。しかしこの裁判は普通では考えられない進展をみせた。朝木が裁判の途中で「取材は受けていない」などと主張したため、原告対被告だけにとどまらず、講談社と朝木父娘の被告同士の間でも争いが起きたのである。

 記事が出来上がった時点で、取材して記事にした側と取材された側の意見や利害が対立することはあり得ないことではない。ところが朝木は、そもそも『週刊現代』から取材を受けておらず、コメントはすべて捏造だというのだった。事実なら、意見や利害の対立どころの話ではなかった。

 裁判所は朝木の主張を認めず、記事に掲載されたとおりのコメントをしたものと認定したが、私が何より驚かされたのは、自らの保身のためなら、存在した事実を平然となかったものと言い張り、一定の信頼関係にあった者(少なくとも『週刊現代』はそう認識していた)をこれほどみごとに裏切ることができる者が存在していたことだった。

誰も予測しなかった主張

 朝木が「『週刊現代』の取材はいっさい受けていない」と初めて主張したのは創価学会が『週刊現代』と朝木を提訴(平成7年10月6日)してから約1年後の平成8年8月7日である。朝木はこの日、矢野、大統とともに問題の『週刊現代』の記事を批判する記事を掲載した聖教新聞と創価学会、東村山警察署副署長の千葉英司、それに万引き被害者などを提訴した(いわゆる「聖教新聞」事件)。訴状で矢野と朝木は創価学会会長が『週刊現代』のコメントを非難したことに対して次のように主張していた。



(「聖教新聞事件」訴状における朝木の主張)

 しかしながら、原告朝木大統及び朝木直子は、朝木明代の死亡に関して、「創価学会はオウムと同じ」「自殺したように見せて殺すのです。今回で学会のやり方がよくわかりました」「妻が万引き事件で逮捕されたことも、学会におとしいれられただけ。万引き事件で悩み、それが原因で自殺したというシナリオを作ったんです」「万引き事件も、今回の転落死事件も、学会が仕組んだ策謀」「学会と警察は共謀している」などと発言した事実は、一切ない。



『週刊現代』の記事に掲載されたコメントは捏造だから朝木らが批判される理由はなく、名誉を毀損するものだという主張と理解できた。これが間接的に、『週刊現代』裁判でも刑事告訴されていた案件においても朝木らに責任はないと主張するものであることはいうまでもない。

 提訴した日の午後、矢野は朝木、中田康一弁護士、支持者の小坂捗孝とともに東京弁護士会館で記者会見を開き、取材に来たマスコミ関係者には訴状のコピーを配布した。中身を読んだ記者のすべてが「取材はいっさい受けていない」という主張に驚いたのではあるまいか。

 記者の中には矢野と朝木の主張に従って全編にわたって「創価学会関与の疑惑」をほのめかした『怪死』(教育史料出版会)を出版したばかりの乙骨正生もいた。

 余談だが、乙骨は当時、『怪死』の記載内容をめぐって朝木から訴えを起こされていたことがのちに明らかになっている。その記載内容とは次の部分であるという。

〈朝木さんに対しても、「万引き常習者」だの「家族揃って万引きをしている」などと、それこそ根も葉もない誹謗中傷が執拗に加えられているが、そうした誹謗中傷の極めつけにあるのが、W不倫情報。

 朝木さんと矢野さんは、以前からW不倫関係にあり、二人が性交渉していた声が、事務所から漏れていたなどとの噂が、東村山市では、創価学会・公明をはじめとする反「草の根」グループからまことしやかに流されているのである。

 特に、朝木さんが不可解な転落死を遂げてからは、朝木さんの死は、「矢野と娘の直子が不倫関係に陥り、それにショックを受けたのが朝木の自殺の動機」などという唾棄すべき噂が、創価学会関係者などから流されている。〉

 乙骨は矢野と朝木に関する不適切な関係と手癖に及ぶ噂が事実ではないと、気を利かせて否定しようとしたものと思われる。しかし矢野と朝木にとっては、記載自体か表現方法にやや問題があると思われたのかもしれない。

 さて、その乙骨も『週刊現代』とは知らない関係ではなかったと思うが、はたして「『週刊現代』の取材はいっさい受けていない」という朝木の主張をどう受け止めたのだろうか。乙骨としても同時に両方の顔を立てることはできず、さぞかし複雑な心境だったのではあるまいか。

朝木を信頼していた担当者

 いずれにしても朝木の主張は『週刊現代』にとっては裁判の上でもマスメディアの責任という意味でもきわめて重大な問題である。記事内容の真実性以前に、コメントも捏造だったということになれば社会的信用は地に墜ちよう。しかしこの時点で講談社側はカヤの外だった。講談社側は朝木が『聖教新聞』を提訴した事実はもちろん「『週刊現代』の取材はいっさい受けていない」と主張している事実も知らされていなかったのである。

 講談社担当者の陳述書によれば、朝木が『聖教新聞』を提訴してから20日後の平成8年8月27日には、『週刊現代』裁判の講談社側と朝木側の打ち合わせが霞が関の東京弁護士会館で行われる予定になっていた。ところが朝木側は無断で30分以上も遅刻してきたという。このとき担当者は朝木側になんとなく不信感を持ったという。

 つまり講談社の担当者はそれまで朝木を信頼していた一方、提訴から20日たっても、朝木が『聖教新聞』に対する訴状で「『週刊現代』の取材はいっさい受けていない」と主張していることを知らされなかったということだった。それから間もなく担当者は、朝木が「『週刊現代』の取材はいっさい受けていない」と主張していることを知り、朝木に対する「不信感は決定的」になったと述べている。

 なお、この担当者とは『週刊現代』編集長ではなく、問題の記事を直接担当した編集者で、記者の取材に基づいて記事を作成した人物である。裁判資料によれば、彼は記事担当者として取材経過をよく知っているだけでなく矢野、朝木とも直接会っており、裁判でも講談社側の当事者として関与していた。

(つづく)
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『週刊現代』事件 第2回
その後も取材に協力

 朝木直子は『聖教新聞』に対する訴状で「『週刊現代』の取材はいっさい受けていない」、つまり「明代は創価学会に殺された」などとするコメントはすべて捏造だと主張していた。しかしその一方、『週刊現代』は平成7年9月23日号に続いて同9月30日号(〈東村山市議変死事件の深まる謎と創価学会の言論弾圧〉)、同10月28日号(〈連続追及 東村山女性市議・朝木明代さん変死事件 これでも創価学会は中傷・嫌がらせはなかったというのか〉)と相次いで創価学会の関与が疑われるかのような記事を掲載している。

 この2本の記事はそれぞれ創価学会から刑事告訴され(同9月12日)、民事で提訴された(同10月6日)あとに出されたもので、創価学会の法的措置に対抗する意味合いもあった。9月30日号には告訴状に対する反論として次のような朝木直子と大統のコメントも掲載されている。



(告訴された後のコメント)

〈高知の講演会(反創価学会のシンポジウム)について「講師(朝木明代氏)の命の保証はない」などと創価学会関係者が主催者を脅迫した後、今回の事件が起こった。これらの事実を『週刊現代』を含むマスコミのみなさんに平等にお話ししたにすぎません。

 創価学会は事実を公表されてうろたえているのではと思います〉



 創価学会の朝木に対する告訴は、朝木父娘が『週刊現代』の取材に応じて「明代は創価学会に殺された」とする趣旨のコメントをしたという事実が前提である。すると朝木らが「『週刊現代』の取材はいっさい受けていない」のなら、朝木は『週刊現代』からコメントを捏造されたことによって多大な迷惑をこうむっていることになる。

 いわば朝木も報道被害者で「創価学会はうろたえている」などとコメントしている場合ではない。「『週刊現代』の取材はいっさい受けていない」のなら、まずそう反論するのが普通の感覚ではあるまいか。「創価学会がうろたえている」云々はそれから先でよかろう。

 それどころか、コメントを捏造するような週刊誌には2度と近づかせないようにするのが普通の感覚だろう。ところが朝木はコメントを捏造されてもなお、その後の『週刊現代』の取材に応じて丁寧にコメントしている一方、朝木が「『週刊現代』の取材はいっさい受けていない」と主張している事実は1行たりとも書かれていない。これではやはり、「『週刊現代』の取材はいっさい受けていない」とする朝木の主張には信憑性がないと判断されてもやむをえないのではあるまいか。

きわめて好意的な対応

 むしろ担当者の陳述書によれば、少なくとも『週刊現代』が連続して創価学会疑惑記事を掲載していた当時、問題のコメントをしていないどころか、『週刊現代』に対して朝木と矢野らがきわめて好意的に取材に応じていた様子が浮かび上がる。

 担当者の陳述書によれば、『週刊現代』は9月2日に取材を開始、4日になって編集長から正式に取材の指示が出た。現場の取材チームは5日の時点で3名となり、そのうちの1名は同日、朝木宅に大統を訪ねている。大統は門の前まで出てきて取材に応じ、創価学会を激しく批判するとともに「妻が自殺するはずがありません。創価学会に殺されたんですよ」などと述べた。

 別の記者は9月5日から「草の根」事務所で取材を続けたが、5日は「矢野ばかりが発言していて、直子がしゃべろうとすると矢野がさえぎるので困る」という状況だったが、原稿締切日である9月6日になって朝木本人から話を聞くことができた。朝木はその際、「母は殺されたんだと思います」「今回で学会のやり方がよくわかりました」などと述べた。

 この2日間の大統と朝木のコメントが問題の記事に掲載されたコメントである。朝木のコメントについては原稿作成の段階であらためて本人に電話連絡し、その内容で間違いないかどうか確認を取ったという。こうして〈夫と娘が激白!「明代は創価学会に殺された」〉と題する記事が出来上がった。

 問題の記事を掲載した平成7年9月23日付『週刊現代』は同年9月11日に発売された。担当者によれば同日夜、担当者は「草の根」事務所を訪ねて矢野、朝木と初めて面会している。担当者はその際に、「朝木氏と矢野氏は私に対してきわめて好意的で、警察から返却されたばかりの明代氏の遺品(血がついたストッキングなど)をみせてくれた。また今後の全面的な取材協力の約束を取りつけた」という(実際にその後に発行された2本の関連記事において矢野と朝木は取材に協力している)。

「よくあそこまで書いてくれましたね」

 また講談社代理人は朝木に対する尋問の際、朝木は担当者に対して「よくあそこまで書いてくれましたね」という趣旨の発言をしたとも述べている(朝木は否定)。事実なら、もちろんこれは謝辞で、『週刊現代』を責めるものではない。

 朝木の陳述書によれば、朝木は同年9月11日に全国紙朝刊に掲載された広告によって問題の『週刊現代』が発売されることを知ったという。広告には〈夫と娘が激白!「明代は創価学会に殺された」〉との文言があった。朝木は「疑惑についてはともかく、私も父もこのような発言は一切していなかったので驚いた。そこで矢野議員に知らせるとともに、すぐにこの『週刊現代』を買って読んでみた」(要旨)という。したがって当然、『週刊現代』の担当者が事務所に来た時点で朝木も矢野も記事内容を知っていたし、しかもコメント部分については少なくとも納得はしていない雰囲気である。

 その朝木が、『週刊現代』の発売当日に初めて会った担当者に対して、まず身に覚えのないコメントが掲載されている事情について質問したのならわかるが、「よくあそこまで書いてくれましたね」と謝辞を述べるとは奇妙だった。しかも担当者はその夜、明代の遺品まで見せてもらったという。

 担当者は陳述書で「返してもらったばかりの遺品」と記載している。東村山署が明代の遺品を返却したのは9月3日だから「返してもらったばかり」というのはやや正確さを欠いている。しかし、見せてもらった遺品の中でも「乾いた血がべっとりとついたやぶれたストッキング」がとりわけ印象に残っていると記載している点は具体的で作り話とは思えない。やはり朝木は『週刊現代』の取材に応じており、挨拶に訪れた担当者にきわめて好意的に接したとみるのが素直な見方というべきではあるまいか。

(つづく)
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『週刊現代』事件 第3回
具体性か悪質な嘘か

 常識的にみると、講談社という伝統ある出版社の社会的に名前の通っている雑誌が、これほど社会的なインパクトの大きい記事においてコメントの捏造という明らかな被害者が存在するような行為をするとは考えにくい。また仮にそのような事実があったとして、被害者であるはずの朝木がその後も取材に応じるとともに、担当者や記者らに対して1年以上もの間、そのことをおくびにも出さなかったなどとは誰が考えても信用できる主張とはいえまい。

 しかし朝木は平成8年8月7日以降、平成14年10月29日に敗訴判決が確定しても「取材をいっさい受けていない」とする主張を引っ込めていない。いったん持ち出した主張を決して曲げない執念深さは矢野譲りだろうか。

 さて、『週刊現代』から「取材をいっさい受けていない」とする事実を立証するために行った朝木の説明にはそれなりの具体性があった。朝木が提出した陳述書によれば、平成7年9月11日、発売されたばかりの『週刊現代』を確認した朝木は以下のような行動をとったという。



(朝木が主張する「編集部への抗議電話」)

 矢野議員と相談した結果、すぐに連絡してこちらの意思を伝えておくべきだということになり、私は、すぐに「週刊現代」編集部の○○編集部員(筆者注=担当者。○○は実名)に電話をかけました。そして、私が「『明代は創価学会に殺された』とすごい引用になっていますが、こんな発言はしていないし、身に覚えのないことで、私達がとばっちりを受けるようなことはないでしょうね。」と伝えると、○○編集部員(同)は「創価学会は、月刊ペン事件以降最近はメディアを訴えていないから、大丈夫ですよ。」と答えました。この時は、○○編集部員(同)も忙しそうにしていたので短い電話で終わりましたが、記事に掲載された発言をしていないことは間違いなく伝えました。



 事実関係は別にして、「明代は創価学会に殺された」とする発言を「すごい引用」と記載しているところからすると、朝木にはこれが根拠のないとんでもない発言であるという認識があったことがうかがえる。

 さて朝木の上記主張によれば、『週刊現代』の発行日に編集部に電話し、発言はしていない旨を伝えたという。朝刊で内容を知って読んだというのだから、遅くとも午前中には電話したのだろう。『週刊現代』発行日といえば、その夜、記事の担当者が「草の根」事務所に挨拶に行った日である(前回参照)。ちなみに担当者は陳述書で、「草の根」事務所に挨拶に行く前にコメントについて朝木と電話でやり取りしたとは書いていない。

 しかし朝木の陳述書によれば、担当者に電話をしたことになっている。あくまで電話で話しただけなのだから、朝木は電話の相手が担当者であることを確認したということだろう。そうでなければ「○○編集部員は『創価学会は……』と答えました。」「○○編集部員(同)も忙しそうにしていたので短い電話で終わりました」などとはいえない。この陳述内容には具体性があるといえるが、仮に事実でない場合には悪質性の高い嘘ということになる。

いなかった担当者

『週刊現代』が発行された当日、朝木が担当者に電話をかけて「あのような発言はしていない」との意思表示をした事実はあったのだろうか。ところが担当者の陳述書によれば、担当者はこの日、取材で八王子に出かけていて夕方まで編集部にはいなかったというのである。

 すると朝木は担当者が八王子に出かける前か、夕方編集部に帰ってから「草の根」事務所に行くまでの間に担当者をつかまえたのだろうか。それならそうと陳述書に記載すればいいと思うが、朝木の陳述書には担当者に電話をしたとする時間帯は記載していない(法廷では「夕方以降だったと思いますが」「時間ははっきりと覚えておりません」と供述している)。

 本当に朝木は担当者に「あのような発言はしていない」という旨の電話をしたのだろうか。この点について講談社の代理人が法廷で朝木に直接尋問している。その様子をみよう。



(平成7年9月11日の「電話」に関する朝木の供述①)

講談社代理人  11日には(電話の相手の)名前を聞いたんですか、聞いてないんですか。

朝木  11日の時点では聞いたかどうか、ちょっと記憶がありませんが。

代理人  電話で、名前も聞かずに、それで今○○(筆者注=担当者)に抗議をしたと証言されるんですか。なぜ○○(同)という根拠があるんですか。

朝木  ですから、10月17日にお会いしたときに名刺をいただいて、きちんとした肩書と名前が書いてあるのを見て、ああこの間お電話した方ですねというふうに認識しましたが。

代理人  (10月)17日に名刺を渡されたら、11日の電話の声が○○(同)だとわかるんですか。

朝木  いや、話の流れからそういうふうになっていくんではないですか。……



 朝木は代理人の最初の質問に「11日の時点で聞いたかどうか記憶にない」といい、次の質問で早くも11日には電話の相手が誰なのか、確認していないことを認めている。まったく面識のない人物に電話をするのに相手が誰かを確認するのは当然で、そのことを覚えていないとは、相手が誰なのかを確認しなかったということと判断できよう。

 1カ月以上先に会った人物が過去に電話で話した相手であることがわかることはあり得ないことではない。ただしそれは、相手が過去に話したのが自分であると認めた場合だけである。ところが朝木は、電話から1カ月先に会った担当者から名刺をもらい、肩書が書いてあるのを見ただけで、それが9月11日に電話で話した相手と認識したというあり得ない話をしている。「話の流れからそういうふうになっていくんではないですか」という朝木の理屈は常人にはちょっと理解できない。

 1カ月先どころか、担当者はその日の夜に「草の根」事務所で朝木に会ったと証言している。だとすれば朝木はその時点で、昼間に電話した相手がこの担当者であると確認できたはずで、またそのような会話を交わしたはずである。朝木はなぜそのことに触れず、1カ月も先の話をするのだろうか。

(つづく)
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『週刊現代』事件 第4回
相手を「確認していない」朝木

 尋問は、朝木が担当者に電話をかけたかどうかだけでなく、そもそも朝木は9月11日、『週刊現代』編集部に電話をかけたのかどうかという点にも及んでいく。続く尋問を聞こう。



(平成7年9月11日の「電話」に関する朝木の供述②)

講談社代理人  『週刊現代』にはどういうふうな電話をかけたんですか。そんな電話はかかってきていないんですけれどもね。誰宛に、どういう電話をかけたんですか。あなたは陳述書で『週刊現代』編集部の○○編集部員(筆者注=担当者)に電話をしたということをちゃんとお書きになってるんですよ。そんな事実はどこにもない。

朝木  それは嘘ですよ、○○先生。

代理人  ○○(同)はその時いないんですよ。

朝木  こちらは発言していないということはお伝えしてあります。○○先生もご存じのはずです。

代理人  ○○(同)はその時いないんですよ。誰に対して、どんな電話をかけたんですか。誰を出してくれといったんですか、それで。

朝木  朝木ですということで、この記事のことでちょっとお伝えしたいことがありますという電話をいたしました。

代理人  誰に。

朝木  ですから編集部の方にお電話をいたしました。

代理人  じゃあ○○(同)かどうかはっきりしないということですか。

朝木  いや、あとからそれは○○(同)さんだというふうに思いましたが、私は。

代理人  あなたがそう思った。○○(同)と初めて名刺交換をしたのはいつですか。

朝木  10月17日です。こちらに名刺を渡してるかどうかわかりませんが。

代理人  それも事実とちょっと違うんじゃないですか。その発売の直後じゃないですか、○○(同)と初めて面識を持ったのは。



 この代理人の尋問からうかがえるのは、朝木は『週刊現代』編集部に電話したけれども相手を確認しなかったのではなく電話自体をしていなかったのではないか、また朝木が担当者と面識を持ったのが10月17日ではなく発売当日だったということである。朝木が最初に会ったのは発売当日の夜であることは担当者も陳述書で具体的に述べている。その後朝木と矢野が『週刊現代』の取材に応じている事実からみても、担当者の証言の信憑性は高い。

 朝木はなぜ担当者と初めて会ったのが9月11日ではなく10月17日だと言い張るのだろうか。9月11日だったのでは電話したと主張する当日、しかも電話したとする時間帯の数時間後であり、担当者の印象もより強く残っていることが容易に推認でき、「電話を受けていない」とする担当者の供述には信用性が高いと判断される可能性が高いから、当日から間の空いた日を選んだということだろうか。 

 いずれにしても、もはやこのやりとりからは朝木の主張が事実かどうかというよりも、もはや一種の驚きを禁じ得ない。講談社の代理人がいくら「担当者はそのときいなかった」と説明しても、朝木は編集部に電話したと主張し、その際に相手が誰かはわかっていなかったと認めているにもかかわらず、「あとで相手が担当者だったと認識した」などと通常では理解しがたい強弁を繰り返した。これほど明らかに不合理と思われる理由をこじつけていながら、結論において絶対に自分の主張を譲らない朝木の姿勢はもはや異様に映る。

編集部に「電話はなかった」

 ここまでの尋問で、『週刊現代』が発売された当日、記事の担当者に対して「取材は受けていない」とする電話をしたと主張する朝木は、陳述書では電話に出たという相手が担当者だったと断定していたにもかかわらず、尋問ではその主張を変遷させ、電話の相手が誰なのかを確認していなかったことは朝木自身の供述から立証された。そのこと自体、すでに「取材は受けていない旨を電話で担当者に伝えた」とする朝木の主張が虚偽であることをうかがわせる。

 しかも上記尋問における講談社代理人の発言によれば、『週刊現代』編集部には「そんな電話はかかってきていない」というのである。それが事実なら、「取材は受けていない」という電話をかけたとする主張自体が嘘だったということになる。

 そのことを裏付ける事実を担当者が陳述書で次のように明らかにしている。

――『週刊現代』では記事に対するクレーム等はすべて担当者が対応することになっている。本件は記事のタイトルにもなっている取材対象者のコメントが、取材さえ受けていないと主張するきわめて重大なクレームである。そのような場合には、仮に担当者が外出していたとしてもポケベルで呼び出される。ところが9月11日、担当者がポケベルで呼び出された事実はなく、担当者が編集部に確認しても、朝木から電話を受けた者は誰もいない――と。

 仮に朝木が担当者以外の編集者に電話をかけていたとすれば、取材を受けていないにもかかわらず創価学会を殺人犯呼ばわりするコメントを捏造されたと主張しているのだから、どんな間抜けな編集者でもそのような重大なクレームを上司に報告し忘れるなどということは常識的には考えられまい。

 当初朝木は9月11日に『週刊現代』編集部に電話した際、担当者から「大丈夫ですよ」などといわれたと主張していたが、講談社の代理人から「その時担当者は編集部にいなかった」などと追及されるや、その時点では電話の相手が誰であるのか確認しなかったと主張を変遷させたこと、担当者と最初に面会したのが9月11日できわめて好意的に対応していたにもかかわらず、最初に会ったのは10月17日などと主張していること、編集部には朝木からの電話を受けた者は存在しないこと――などを総合すると、そもそも朝木は9月11日に『週刊現代』編集部に対してそのような電話はかけていないとみるのが自然なのではあるまいか。

(つづく)
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『週刊現代』事件 第5回
幼少時代を語った朝木

『週刊現代』の記事をめぐり朝木直子が「取材を受けていない」と主張し、発売当日の「夕方以降」(だったと思うと朝木は供述している)に編集部に電話し、担当者に対して「コメントはしていない」旨を伝えたと主張している点については、担当者の証言やその後も朝木が『週刊現代』の取材に応じていたことなどからするときわめて信用性が低いといわざるを得ない。裁判所でも一審、二審とも事実として認定されていない。朝木の主張は信用できないと判断されたということである。

 朝木が「『週刊現代』の取材はいっさい受けていない」と主張した点については、編集部に抗議の電話をしたと主張した以外に『週刊現代』が法廷で証言した取材そのものの状況についても真っ向から対立する主張を展開している。

 朝木直子の取材を行っていたN記者の証言によれば、Nが「草の根」事務所において朝木の取材を行ったのは平成7年9月5日から6日にかけて。「当時、草の根事務所は、テレビ、新聞、雑誌等の記者らが集まっていて、非常に混雑した状態」だった。Nは事務所内だけでなく、朝木がコンビニに出かけたときに同行するなどして取材したという。その間に朝木が述べた内容は概要、以下のとおりだった(東京地裁も東京高裁も事実を認定している)。



(『週刊現代』の取材に対する朝木のコメント①)

 1日の午後10時半頃に、母の様子を見に行きました。家にはいませんでした。事務所も誰もいなくて、ワープロの電源がついたままでした。電灯やクーラーもつけっぱなしですし、おまけに母のバッグが、中身も全て置いてあるのを見つけて、正直にいうと、もう会えないのかな、まるで坂本事件のようだなと思いました。

 自殺などではありません。……母のような人を自殺に追い込むことはできないと思います。支持者の方々も皆そう言ってますよ。それに、もし自殺するために、あのビルから飛び降りたのなら、もっと前に落ちていたはずです。あの位置は真下ですからね。

 母は、議員でいるときは、闘士と書かれる事が多いですが、議員でない時の母は、子供好きな、本当に優しい人でした。器用な人で、私が小さな頃、洋服は手作りでしたし、おやつも手作りでいつも作ってくれました。

 私が小学生の頃から、母はボランティア活動を始めたのです。老人ホームへの訪問や、昼食会、子供会やPTAでも活動していたと思います。

 弱い者いじめだけはやめなさい。そしいう人たちを守ってあげる勇気を持てるようになりなさいと、事あるごとに聞かされました。

 母の場合も、私の場合も、特に政治の世界に入るつもりはなかったのですが、あくまでも市民活動のひとつとして、その必要性があったのです。

 創価学会による政教一致を常に批判し続け、学会による被害者を支援してきた母の死を無駄にしないように生きていきます。



『週刊現代』の記事をめぐり創価学会から告訴された朝木は〈高知の講演会(反創価学会のシンポジウム)について「講師(朝木明代氏)の命の保証はない」などと創価学会関係者が主催者を脅迫した後、今回の事件が起こった。これらの事実を『週刊現代』を含むマスコミのみなさんに平等にお話ししたにすぎません。〉と述べた。今から思えば、このときすでに朝木は〈『週刊現代』に対して個別に「明代は創価学会に殺された」などのコメントはしていない〉と主張する伏線を準備していたのかもしれない。実際に裁判でも朝木は『週刊現代』の個別取材は受けていないと主張した。

 しかしNが記録したここまでの朝木のコメントでは転落死以外にも明代が母親として洋服やおやつを作ってくれたこと、弱者を守ってあげるようにと聞かされたことなどにも触れられており、取材しないで作出されたものとは考えにくい。

具体的な想定

 続くコメントをみよう。



(『週刊現代』の取材に対する朝木のコメント②)
 
 母が死んだという一報がきたとき、私は家の前に不審車がいたので、外に出ました。妹の悲鳴で気がついたのです。すぐに、母は殺されたんだと思いました。当然ですよ。都議選の後ぐらいから、尾行されたり、いたずら電話や、ポケベルに4の文字が並んでいたり、放火の件や、矢野さんへの暴行、そして万引きの件もありました。

 特に万引きの事件後は、自分の身辺に気をつけ始めました。カバンの中に、何かを入れられたら、万引きしたというレッテルを貼られますからね。家の鍵や、夜中に1人で出歩かないようにするなど、警戒はしていたのです。



 ここで朝木が「不審車」といっている車が停まっていたのは朝木宅の前ではなく、正確には朝木宅につながる路地から東村山駅方面に向かう道に出て左折し、20メートル先をさらに右折した地点である。したがってその「不審車」を見たというだけで「すぐに、母は殺されたんだと思いました」とはとうてい考えることはできず、実際に何の関係もなかったことが判明している。

 朝木は「妹の悲鳴で気がついた」というが、車を見ただけで悲鳴を上げたとすれば朝木の妹こそまともではないということになろうか。ちなみに東村山署の事情聴取に応じた弟はこの車について、なんらの異状も感じられなかったと供述している。朝木が主張するそれ以外の「事件」についても、矢野が犯人と名指しした少年が無実だったり(少年冤罪事件)、裁判所からその存在自体が不明確などと認定されたものばかりである。

 さて、コメント②の中で注目されるのは〈特に万引きの事件後は、自分の身辺に気をつけ始めました。カバンの中に、何かを入れられたら、万引きしたというレッテルを貼られますからね。〉というコメントである。どのメディアにも出ていないコメントで、これもまた朝木が『週刊現代』の単独取材に応じていたことをうかがわせる。

 そのこととは別に、朝木が〈カバンの中に、何かを入れられたら、万引きしたというレッテルを貼られますからね。〉という万引きが疑われるケースを具体的に想定して述べていることは興味深い。素人では具体的なケースをよどみなく例示することは難しいのではないか。朝木の周辺ではそんな話が出ていたのだろうか。

 私は反射的に、乙骨が『怪死』(教育史料出版会)で〈朝木さんに対しても、「万引き常習者」だの「家族揃って万引きをしている」などと、それこそ根も葉もない誹謗中傷が執拗に加えられている〉と記載していたのを思い出した。

(つづく)
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『週刊現代』事件 第6回
「忙しい」と聴取を断る

 朝木はNの取材に対して東村山署の対応についてもきわめて具体的にコメントしている。その中にはとうてい本人でなければ知り得ない内容が含まれていた。


 
(『週刊現代』の取材に対する朝木のコメント③)

 高知行きの話でも、既に航空券やホテルを偽名で予約するくらい警戒していたんですよ。これで自殺だって信じられますか。

 創価学会は、オウムと同じですよ。手口としては、まず、汚名を着せてレッテルを貼る。そして、社会的評価を落とすのです。その後その対象となる人物が、精神的に追い込まれて自殺したふりをして殺すのです。今回で学会のやり方がよくわかりました。

 警察にしても嘘っぱちですよ。事件に関しても、協力などまるでありません。現実、警察から家には、連絡が全くなかったのですよ。矢野さんには連絡をして、何故こちら遺族には連絡をしないのでしょうか。今日(6日)になって初めて、東村山署の○○課長代理から連絡があって「お母さんの当日の様子を聞きたいので署まで来てくれ」というのです。おかしいんじゃないですか。今ごろですよ。何故もっと早く連絡をくれなかったのでしょうか。

 2日の午前2時50分頃に、矢野さんの方に、母が亡くなったと連絡が来て、父、妹、弟とともに署に向かいました。署に到着して、母に会いたいと思っていたのですが、刑事課の刑事が、検死が終わるまで会わせてくれないのです。遺族なんだから会わせて下さいとお願いしても「ダメなんだから、ダメなんです」と受け付けてくれませんでした。

 やっと会えたのが、検死後の午前5時頃ですよ。既に母は柩に入っていて、顔しか確認できませんでした。死に顔は般若顔、怒ってる顔でした。



 上記コメントには、警察から連絡があった日やその内容、亡くなった母親と対面したときの状況など朝木にしかわからない内容が多く含まれている。たとえば東村山署が事情聴取の要請をするために朝木宅に電話をかけた日付は記録と合致している。この点だけをみても、このコメントが朝木のものであることは証明されよう。

 なお朝木は東村山署からの連絡が9月6日だったことについて「何故もっと早く連絡をくれなかったのでしょうか」と、連絡をくれればすぐにでも聴取に応じたのにといわんばかりである。しかし記録によれば、朝木はそのとき東村山署の課長代理に対して「今、忙しいので検討して電話する」旨の回答をした。

 警察から連絡があれば何を置いても事情聴取を優先するような口ぶりであるにもかかわらず、また実の母親の死に関する聴取であるにもかかわらず、現実の回答が「今は忙しい」「検討して連絡する」だったとはどういうことなのか。仮にそのとき手の離せない事情があったとしても、何時間もその状態が続くということはあるまい。また事情(事実)を話すのに何を「検討する」必要があったのだろうか。矢野と口裏を合わせる必要、ということだろうか。

 いずれにしても判決文に記載された取材の記録によれば、朝木はNに対し警察から連絡を受けたのが6日だったことに不満を訴えた一方、すぐには行っていないことは伝えていないようである。そのことを朝木はなぜ『週刊現代』の記者に伝えなかったのだろうか。

調べに応じなかった理由

 さて、課長代理は朝木が「すぐに行きます」ともいわず、事情聴取に行く日も明確にしないので自席の電話番号を伝え、朝木からの連絡を待った。しかしその後何日待っても朝木から連絡はなかった。

 現場検証後の9月2日に自殺現場で明代の関係者が介在したとしか思えないかたちで発見された明代の鍵束に関する捜査が終わり、9月11日、課長代理は再び朝木に電話した。今度は「明代さんのものと思われる鍵が発見されたので確認に来てほしい」というものである。当時朝木と矢野は、自殺現場に「靴がない」「鍵がない」と騒いでいた。その鍵が見つかった可能性が高いのだから、これも緊急の用件のはずである。

 ところがその際も朝木はすぐには確認に行かず、翌9月12日に電話をかけてきて、鍵の発見状況等についてなぜかヒステリックに質問するとともに「14日夕方に弁護士を連れて取りに行く」と回答してきたのだった。どうしたのだろうか。母親の鍵を確認するのに弁護士を連れて行く必要があるとは思えない。

 9月6日に事情聴取を要請され、朝木は課長代理に対して「連絡する」といったにもかかわらず何の連絡もせず、9月14日には弁護士(もちろん矢野も)を同伴して来た。一連の状況をみると、朝木には警察から何かを聞かれることを警戒していたという側面もあったのではないかという気がしてならない。「連絡がない」と不満を訴えている朝木がその後警察に連絡しなかったことには何か格別の事情があったことをうかがわせる。

 9月14日、朝木が弁護士と矢野を同伴して鍵を取りにやって来た。ついでだから、東村山署は朝木の事情聴取を行った。しかし朝木は今回も多忙を極めていたのか、事情聴取には30分しか応じられないという。弁護士を連れてきた効果ということかもしれない。課長代理はやむを得ず、日を改めて事情を聞かせてくれるよう重ねて要請した。これに対して朝木は「後日また来る」と約束したが、その約束が果たされることはついになかったのである。このため大統と弟の調書はあるが、朝木の調書はない。

 朝木は『週刊現代』記者に対して「警察は連絡してくれない」と不満を訴えた。朝木のこの主張だけを聞けば「警察の対応はやはりおかしい」と記者が考えても不思議はなかろう。しかしその後の朝木の行動を見るかぎり、朝木には最初から聴取に応じる気はなかったことがうかがえる。

 その一方で朝木は、メディアとりわけ『週刊現代』の取材にはきわめて好意的に応じていた。この取材記録自体がその事実を証明していよう。「多忙」の中でメディアの取材には好意的に応じる一方、警察の事情聴取には応じないというのは、遺族の対応としては違和感がある。

 東京地検に対しても同様だった。朝木は同年11月になって東京地検の呼び出しに応じた。しかしその日はなぜか「大声でわめいて」調べにならず、5日後に再度出頭を求めたが、朝木はもう出頭しなかった。

 やはり朝木は何か、「警察には知られたくない何かを知っていた」ということなのではないか――そう考える以外に、朝木が東村山署や東京地検の事情聴取に頑として応じなかった理由は思い当たらない。

(つづく)
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『週刊現代』事件 第7回
解剖をめぐる攻防

(事情聴取には応じなかったにもかかわらず)「私にはいつまでたっても連絡してこなかった」と警察に対する不満を述べた朝木のコメントは、さらに捜査に対する不信感へとエスカレートする。



(『週刊現代』の取材に対する朝木のコメント④)

 その後の解剖にしても、警察はさらさらやるつもりはなかったですよ。母と面会後、午前6時頃だと思うのですが、○○課長代理が、「行政解剖をすることになりました」と言うのです。おかしいと思って、何故ですかと聞くと、「解剖に関しては検事が決めることになっている。司法解剖は事件性の高いものでないとできない。朝木さんの場合は行政解剖になった」というのです。加えて、病院も指定できないとね。彼らはこの事件に関して、事件性はなく、自殺であると決めているわけですよ。

 その後、それでは、こちらは任意で病理解剖をしますと話しました。こちらが何かいうたびに、○○課長代理は、上の階へ行って、誰かと話をしていたようですが、こちらがやると話した病理解剖に関しても、「金がかかりますよ」と気に入らなかったようです。何度か彼は席を外して、結果として「司法解剖となりました」と答えました。なぜ変わったのですかといくら聞いても「こちらでは申し上げられない」と何も答えませんでした。



 ここでは、明代の解剖をめぐり警察の方針に遺族が異を唱えたこと、それに対する課長代理の発言や対応の様子が詳細かつ具体的に述べられている。現場にいて経験した者でなければ話せない内容であると思われる一方、『週刊現代』の記者がここまで具体的な話を捏造するとは考えにくい。

 千葉によれば、課長代理の言動に対する朝木の評価はともかく司法解剖が決定されるまでの経緯はおおむねこのとおりであるという。したがってコメント④もまた、朝木自身が記者の取材に応じて述べたものとみていいのではあるまいか。

 初動捜査を終えた東村山署は事件性はないと判断し、東京地検の検事と協議の上、行政解剖を行う方針だった。一方、「他殺」を主張する矢野と朝木は「事件性がないこと」を認めたくないために行政解剖を受け入れなかった(司法解剖は事件性が疑われる場合に行われ、行政解剖は事件性がない場合に行われる)。

 行政解剖だろうと司法解剖だろうと法的位置づけが異なるだけで、死因を追及するという目的は同じである。ただ、司法解剖は強制力があって原則として遺族の了解を得る必要はないが、行政解剖の場合には遺族の同意が必要となる。朝木は行政解剖を拒否し、司法解剖しないなら任意で病理解剖すると迫ったのだった。司法解剖したということになれば、形式的には「事件性がある」ということにもなるのである。

 千葉によれば、東村山署が当初の予定だった行政解剖を司法解剖に変えた理由の1つは、遺族が任意の解剖を行い、「他殺の証拠があった」と主張した場合には面倒なことになると判断したためであるという。

ただの内出血を「他殺の証拠」と主張

 司法解剖の結果、矢野や朝木らが主張していた「他殺」が疑われる所見はなかった。しかし矢野と朝木は、明代の遺体の上腕内側部に皮下出血があったとする記載から、それが他人に掴まれた痕であり、「他殺」の根拠であると主張した。しかも裁判で矢野は、司法解剖鑑定書に添付された鮮明な重要部分の写真を、内出血の位置や形状が判別できないようにすべて不鮮明に加巧して提出したのである。通常のコピー作業では起こり得ない粗悪なコピーだった。

 司法解剖鑑定書は朝木が明代の救助活動を行った救急隊員と東京都を提訴した裁判で、東京都が証拠として提出した。その原本を確認すると、鑑定書に添付された写真はいずれも鮮明なものだった。

 鑑定書に添付された写真は鑑定医が死因を特定するにあたって重要と判断した部位で、仮に矢野と朝木の主張する「上腕内側部」に人が掴んだ痕があったとすれば鑑定医が見逃すはずはなく、司法解剖鑑定書にも添付されたはずである。しかし添付写真の中に矢野と朝木が「他殺の証拠」と主張する「上腕内側部」は含まれていなかった。

 つまり上腕内側部に内出血の痕が存在したことは鑑定書の記載から事実だが、鑑定医はそれが「他殺」はもちろん死因の特定に関わる重要な部分とはみなさなかったということだった。しかしそれでも矢野は司法解剖鑑定書の添付写真という重要な証拠を加巧することで事実を判別しにくくした上で、その内出血の痕を「他人から掴まれた痕」であると主張したのである。

 仮に捜査当局が司法解剖へと方針を変更せず、朝木が任意の解剖を行っていたとすればどうなったか。平成7年9月2日早朝の東村山署は、矢野や朝木が口々に「殺人事件だ」と騒ぎ立て、彼らに同情的な、あるいは反創価学会メディアを含むマスコミが続々と集まってくるという騒然とした状況にあった。矢野と朝木は「行政解剖」を拒否し、それなら任意での病理解剖を行うと息巻いた。そんな状況にあっても浮足立つことなく、矢野や朝木の態度をみて冷静に司法解剖に切り換えた捜査幹部の判断は的確だったと思う。

心を占めていた出頭日

 朝木の警察に対する不信を訴えるコメントは続く。なにか警察に対して個人的なわだかまりでもあるのかと思えるほどである。



(『週刊現代』の取材に対する朝木のコメント⑤)

 本当に何から何までおかしいんですよ。身元の確認もさせないまま、ずっと待たされたし、救急車が来て、その後、3時間ほど生きていたにもかかわらず、なぜ私たちを呼ばないのでしょうか。しかも防衛医大では、○○係長が母であることを確認しているんですよ。

 生前、母は「私ぐらいの市民グループレベルの人間だとやりやすいわよね」と学会に殺されるかもしれないということは言っていました。

 当然、反学会キャンペーンをやっていて、高知のシンポジウムに出席しようとした前日にあのようなことになったのですから、そこから推測される事実はひとつだと思います。



 通常、不審死の場合には検死が終わるまでは外部の者に会わせることはない。何があるかわからないからで、検死後に遺族が身元確認をして初めてその遺体の身元が正式に確認されたことになるのである。 

 したがって、他人である刑事が確認したということになればその方がよほど問題になる。しかし万引き事件で明代の顔を知っていた刑事が防衛医大で「朝木のようだ」と漏らしたという話も、「東村山署は殺人事件であるにもかかわらず真相を隠蔽した」というストーリーにおおいに利用されたのである。

 続く「高知のシンポジウム」と関連づけたコメントも憶測にすぎない。このコメントの当時、朝木は知らされていなかった可能性もないとはいえないが、明代がビルから飛び降りる3日前の平成7年8月29日、万引き事件の件で明代は東京地検から取り調べのための呼び出しを受けていた。通告された取り調べ予定日は高知から帰京する日の翌日だった。

 ジャーナリストの乙骨正生によれば、地検からの呼び出しがまだ来ていない同年8月25日ごろ、明代は高知に同行する乙骨に対して「高知には楽しく行きましょうね」と話していたという。書類送検されたものの、地検からの呼び出しを受けていない明代にはまだ切迫感がなかったのかもしれない。しかし9月1日の時点で、すでに明代を取り巻く状況は1週間前とは天と地ほどの違いがあった。そのとき、明代の意識を占めていたのは「高知シンポジウム」などではなく、帰京後に迫った東京地検の取り調べだったのではないだろうか。

 そのことを知らされていない『週刊現代』記者にとって「シンポジウム」の話もそれなりの説得力を持ち得たのかもしれない。

 以上が、『週刊現代』記者が取材し、裁判所が事実を認定した朝木のコメントだった。

(つづく)
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