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著書紹介

民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒

『民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒』(ユニコン企画発行、長崎出版発売、1200円+税)

現在の“東村山の闇”の原点である議席譲渡事件と女性市議転落死事故についてのルポルタージュ。今は絶版となっていて書店では買えないが、手元に在庫があるので、希望の方はこちらにメールしてください。書籍代+送料でお分けいたします。

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『聖教新聞』事件 第47回
添付されなかった「上腕内側部」

 司法解剖鑑定書の「上腕内側部の皮下出血の痕」を第三者からつかまれた跡と主張するには、明代が転落するまでに拉致されたという事実が存在しなければならない。しかしこれまで見てきたように、9月1日夜の明代の行動からは、明代が拉致される時間帯はない。明代が拉致されたという事実は存在しないということである。

 したがって、明代の転落死に第三者が関わっている余地はなく、明代の「上腕内側部の皮下出血の痕」が他人からつかまれた痕である可能性はない。明代の遺体には無数の内出血の痕があった。千葉が供述したように、「上腕内側部の皮下出血の痕」も、転落の際にどこかにぶつけたものにすぎないという結論になる。

 司法解剖鑑定書自体からも、鑑定医が明代の死に関して「上腕内側部の皮下出血」に特別の意味があるとは判断しなかったことがうかがえた。鑑定書には頭部から足先に至る全身の状態が細かく記載されているとともに16枚の写真が添付されている。鑑定医が死因を判断する上でより重要と判断した部位であると理解できよう。

 矢野や朝木が主張するように、「上腕内側部の皮下出血の痕」が第三者からつかまれた痕であると判断できるのなら、添付された写真の中に含まれていないはずがない。しかし鑑定書の16枚の写真の中に「上腕内側部」は左右とも含まれてはいなかった。死因を追及するにあたって鑑定医が「上腕内側部」を重要な部位とはみなさなかったということと理解できた。

きわめて不鮮明な写真を提出

 ところで、『聖教新聞』裁判に司法解剖鑑定書を提出したのは矢野、朝木の側だった。もちろん鑑定書に「『上腕内側部の皮下出血の痕』があることが記載されており、それが第三者が関与した証拠である」と主張するためにほかならない。鑑定書は彼らが「他殺」を主張する上で最も重要な証拠であるはずである。ところが、彼らが提出した鑑定書にはきわめて不可解な点があった。鑑定書に添付されている16枚の写真のすべてが、何度もコピーを重ねたかのように不鮮明だったのである(文字の部分だけは鮮明だった)。

 司法解剖鑑定書というものを初めて見た私は、添付された写真が不鮮明である理由について深く考えもしなかった。しかし司法解剖の現場に多く立ち会っている千葉は最初からこの点を不審に思っていた。

 そもそも司法解剖鑑定書が表に出ることになったのは、朝木が明代の救助活動を行った救急隊に過失があったとして損害賠償を請求して提訴したことがきっかけだった。救急隊(東京消防庁)は救急隊の活動に過失がなかったことを立証するために鑑定書を証拠として提出したのである。

 司法解剖鑑定書は死因を特定する目的で行った解剖の結果を可能な限り正確に記録するものでなければならない。写真もまた鮮明でなければ、鑑定書の体をなさない。したがって鑑定書の写真は矢野が提出したコピーを重ねたものではなく鮮明なものであるはずだ――千葉はこうみていた。

 また東京消防庁が、自らの過失がなかったことを立証するための証拠として法廷に提出する以上、鑑定書を改ざんすることはできない。もちろん、添付写真も鑑定書の一部だから鮮明なはずである、と。

 それを確認するために、私と千葉は東京地裁で救急隊裁判の記録を閲覧した。すると、救急隊が提出した鑑定書の添付写真は千葉が予測していたとおり、きわめて鮮明なものだったのである。

くっきりと線状の内出血

 では矢野はなぜ、鑑定書の写真だけを、わざわざ不鮮明になるまでコピーを重ねるという面倒なことをしたのだろうか。またなぜ、その上で朝木がイラストを作成して提出したのか。16枚の添付写真の中には、その2つの行為の理由を十分に推測させる写真が含まれていた。

 添付写真の中には〈胸腹部の状態〉という説明のついた1枚があった。首の付け根あたりから臍の下あたりまでを上から撮影した写真である。その写真には腕の部分も肩から両腕の肘下あたりまで写っており、矢野と朝木が「第三者につかまれた痕」があるという左右の上腕内側部も写っていた。

 矢野が提出した鑑定書の写真では、その部分は輪郭を除いて全体がほぼ白っぽくなってしまっている。ところが救急隊が提出した鑑定書の写真を見ると、左右の肘と肩のほぼ中間の上腕内側部には、腕の裏側からつながるかたちで、横1本の線のような内出血の痕がくっきりとついていた。

 とりわけ右上腕については鑑定書にも〈脇窩の高さの下方11㎝の部を中心に、上下に5㎝、幅9.5㎝の皮膚変色部を認める。〉とする記載があり、朝木もイラストの中にほぼ正確に記載している。内出血の幅は水平方向に9.5㎝もあるのだから、上腕を正面から撮影しても十分に目視できるほどの長さであることが理解できるのではあるまいか。にもかかわらず、矢野はなぜあえて写真を不鮮明に加工し、朝木はわざわざイラスト化したのか。

 上腕内側部の皮下出血の痕が第三者につかまれたものであると主張し、それが写真に写っているのなら、鮮明な写真をそのまま提出すればいい。しかし写真を不鮮明に加工したのは、その内出血の痕が第三者によってつかまれたものではなく、転落の際にできたものであることが誰の目にも明らかだったからなのではないか--。そう考える以外に、矢野がわざわざ写真を不鮮明に加工した合理的な理由は考えられない。

 明代が転落した位置の真上にあたる5階と6階の間の手すりには、外側からつかまるかたちで手指の跡がついていた。マンションの裏側は駐車場に接していて、境界にはフェンスが設置されていた。そのフェンスは明代の転落した位置で上部から押しつぶされるように折れ曲がっていた。

 明代は背中側からフェンスに衝突したとみられているが、その際に、両腕の裏側がフェンスの上部に激突したのではあるまいか。明代の両腕に残された線状の内出血の跡はそのことを如実に物語っており、第三者につかまれたものであるとする矢野と朝木の主張を否定するものだった。

 さらに鑑定医がこの内出血について特段、第三者の関与を疑うような記載をしていないことは、この内出血が第三者の存在をうかがわせるものでないことをより裏付けていた。

(つづく)
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『聖教新聞』事件 第48回
「シンポジウム前に事件」と主張

 矢野は明代の万引きを否定し、「他殺」を主張するにあたって、アリバイや「他殺」と信じる根拠についてこれまでに述べてきた直接的な「根拠」(アリバイ主張と「上腕内側部の皮下出血の痕」)以外の「そう思わせる理由」についても様々に主張している。しかし、アリバイと「上腕内側部の皮下出血の痕」に関する主張がとうてい客観的なものでないことは明らかで、直接的な根拠ではないその他の様々な主張が「他殺」の裏付けとなるはずもない。

 ところが平成7年の事件直後の時点では、「万引き冤罪説」と「他殺説」を盲信したメディアにとって、それらの直接的ではない「根拠」も、それなりの信憑性をもって受け止められたのである。矢野らの主張を信じ込んだことがどれほど軽率なことだったか。それを確認する意味で、矢野が持ち出した、どこまでが本当かわからない「根拠」なるものを改めて示しておきたいと思う。

 はたからみてどれほど荒唐無稽に思えるような話でも、1度口にした主張はけっして撤回しないのが矢野のプライドのようで、この『聖教新聞』裁判でも事件当時メディアに訴えた内容を主張している。矢野は裁判所に対しても複数の具体的「事例」を挙げて「明代には殺される予兆があった」あるいは「明代は殺されたと判断できる理由があった」と主張したのである。

 矢野は、矢野と朝木が平成7年9月3日に高知市の市民団体「ヤイロ鳥」が主催する創価学会を批判するシンポジウムにパネリストとして出席する予定だったとし、このシンポジウムが近づいた6月以降に「事件」が相次いで起きていると主張している。つまり、「ヤイロ鳥」のシンポジウムに参加するということは反創価学会の態度を鮮明にするということで、そのことによって彼らは敵とみなされた――こう言外に主張したいようだった。

立証されない「相次いだ事件」

「相次いだ」という事件の中で、矢野が最初の事件として挙げているのが「窃盗被疑事件」、つまり明代の万引き事件である(判決文による)。東村山署が書類送検した万引き事件を最初に主張している時点ですでに、「反創価学会シンポジウムにパネリストとして出席することが決まって以降、事件が相次いだ」という矢野の主張は揺らいでいよう。

 続く「事件」は、明代が万引き事件で書類送検された4日後の平成7年7月16日に起きたと主張する矢野に対する暴行事件である。矢野はのちに1人の少年を「犯人」として東村山署に突き出したが、東村山署は少年は事件とは無関係と認定。刑事事件としては「犯人」が特定されないまま終結した。

 矢野はその後、少年が「犯人」であるとして少年に対して損害賠償を求める民事裁判を起こしたが、東京地裁も矢野の主張を排斥して少年を無関係と認定した。とりわけ判決の中で東京地裁が次のように矢野を批判していることは特筆に値しよう。

〈原告(筆者注=矢野)が被告を本件暴行の犯人である旨断じた根拠は専ら原告の記憶にあるというのであるが、記憶の曖昧さは経験則上明らかであるから、仮にも公職にある者がこの曖昧な記憶に基づき、しかも司法警察職員による捜査がなされながら刑事訴追の手続きが執られていない被告を名指しで犯人であると断定している点において極めて特異であると言わねばならない。〉

 東京地裁の指摘はこの裁判の本質を示しているように思える。矢野は控訴したものの、矢野の代理人は控訴審の第1回口頭弁論までに控訴理由書を提出できず、そのまま敗訴した(=「少年冤罪事件」)。矢野が「犯人」と特定した相手は刑事でも民事でも「無関係」と認定されたことを考えると、矢野が主張する「事件」そのものの存在自体が疑わしいといわれても仕方があるまい。

 その他に矢野が挙げていたのは、以下のような例だった。

③上記「事件」の翌日、「草の根」事務所に彼らを非難するビラが貼られていた
④同年7月19日には明代の自転車のブレーキが壊されていた
⑤同年8月2日、矢野がトラック2台に挟まれて轢き殺されそうになったが、そのトラックの所有者は創価学会員だった
⑥同年8月19日には死を意味する「4-4-4-4」という数字が打ち込まれるなどした
⑦同年8月20日、朝木宅の門柱の上に新聞紙が置かれ、放火された
⑧同年8月26日、「ばく死」と書かれた脅迫状が事務所に送られてきた
⑨創価学会関係者が「講師の命は保障できない」など、シンポジウム主催者であるヤイロ鳥を継続的に脅迫した
⑩同年8月28日、ヤイロ鳥事務局に「五体満足で、講師が高知の地を踏めると思ったら大間違いよ」という脅迫電話がかかってきた
⑪同年8月21日には、高知県内各地の創価学会文化会館で「シンポジウムを断固粉砕する」との申し合わせがなされている。

 ――などである。しかし上記事実についても矢野がそう主張するだけで客観的に証明された事実はなく、東京地裁も〈ただし、本件証拠上、その存在を確定できない事実も多い。〉と述べている。またいずれにしても、矢野が主張する上記事実が存在したとしても、「明代は殺された」とする証拠になり得ないことは誰が見ても明らかである。

 ところで、矢野が「明代は殺された」と主張し、そう信じる理由としてこれだけ多くの「根拠」を挙げながら、明代の転落死直後には主張しており、事実なら重要な「他殺の根拠」と思われるにもかかわらず、不思議なことに裁判では一言も触れなかったことが1つあった。

(つづく)
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『聖教新聞』事件 第49回
矢野が主張しなかった「証言」

 ところで、矢野が「明代は殺された」と主張し、そう信じる理由としてこれだけ多くの「根拠」を挙げながら、明代の転落死直後には主張していたにもかかわらず、不思議なことに裁判では一言も触れなかったものが1つあった。現場のビルに「明代を連れ込むのを見た」という「目撃情報」である。「朝木のポケベルに444の文字が打ち込まれた」「門柱放火事件」と比較しても、はるかに直接的で重要な「情報」と思える。

 そんな重要な「目撃証言」に、矢野はなぜいっさい触れなくなってしまったのか。1度口にしたことはめったに撤回することのない矢野が、いつの間にか引っ込めてしまったきわめて希な例でもあった(明代の自殺に関しては「事務所からの拉致説」も撤回した)。

 余談になるが、この「目撃証言」なるものもまた、明代の自殺を「他殺」としていいくるめようとする過程で登場した主張の1つとして、その発生と衰滅の経緯をあらためて振り返っておこうと思う。「行動する保守」Aや教授Tのように、明代の自殺から20年がたとうとするいまごろになってこの話を蒸し返す者も現れているので、あらためてその起源をたどり、信憑性を問うておくことにも意義があろう。

 さて、問題の「目撃情報」がマスコミに登場するのは矢野が『週刊宝石』でコメントしたのが最初である。矢野はこうコメントした。



(『週刊宝石』における矢野のコメント)

〈『朝木氏が4人の人にビルへ連れ込まれるのを見た』……など、こちらには新たな話が集まっています〉(平成8年4月18日号)



「4人」とは事実のいかんにかかわらず重要かつ具体性のある情報といえる。しかし矢野は結局、この「情報」の出所も信憑性もとうとう明らかにしなかっただけでなく、その後いっさい触れさえしなかった。

 これでは実際に外部からもたらされた「情報」なのか、矢野自身の口からでまかせなのかさえ判断がつかない。それどころか、仮にそのような事実が存在しないとすれば、「4人」という具体性のある情報である分、よけいに捏造の可能性を疑われることになりかねない。

数日後の「目撃証言」

 明代の転落死から数日後、矢野の上記コメントの内容に共通する次のような「情報」が東村山署に寄せられていた。男は「静岡から電話している」といい、氏名を名乗った上で次のように話した。

「当日、例のマンションに女性が4名ほどの男に担がれていくのを見た。2人で見た。明日、警察に行く。あれは自殺ではなく、創価学会の犯行だ。警察は学会を恐れているのか」

 翌日、同じ男とみられる匿名の人物から再び電話があったので、副署長の千葉が対応した。男は、今度はより具体的にこう話した。

「私は4名の創価学会員が朝木市議をマンションに連れ込むのを目撃した」

 出頭はしなかったものの、2日続けて電話をしてくるとは無視できない情報だった。しかもなぜか、当初は「4名ほどの男」だったのが「4名の創価学会員」となり、「女性」が「朝木明代」へとより詳しくなっていた。最初からなぜそういわなかったのか。その人物に千葉はこう聞いた。

「先日電話をくれた人ですね。目撃した際になぜ110番をしなかったのですか? その4名が創価学会員とどうしてわかったのですか?」

 暗がりで、「4人の男がすべて創価学会員」と特定するのは至難の業である。さらに、担がれていたのが「朝木明代」であると特定できたとは、その人物は偶然明代をよく知っていた人物だった上に、よほどの至近距離から見ていたということになろうか。

 しかし男は千葉の質問には答えず、「ばかやろう、お前も創価学会から金をもらっているのか」と怒鳴り、一方的に電話を切った。これが事実ならきわめて重要な証言であることは間違いない。

「2人」で見たといい、「創価学会から金をもらっているのか」とまで非難するのなら、その人物とともに直接東村山署に出頭し、目撃内容を説明すべきだろう。しかしついに男が出頭することはなく、それきり電話もかけてくることはなかった。この「情報」なるものをどう判断すべきなのだろうか。

触れなくなった矢野

 矢野の『週刊宝石』におけるコメントでは、「犯人」は「4人」である。当事者の人数は情報の中でも最も重要な部分だから、人数が一致しているところからすると、矢野の情報の出所は「静岡から電話してきた男」と同一である可能性が高い。ところがなぜか、電話の男がその後警察に電話してこなくなったのと同様に、矢野もまた『週刊宝石』でコメントしたあといっさいこの「情報」について触れていない。

「明代は殺されたのだ」と主張する矢野からすれば、これほど「他殺」に直接的に結びつく情報はない。にもかかわらず、矢野はこの「目撃情報」についてその後、いっさい口をつぐんだ。

 なぜなのか。タレ込みや矢野がコメントした内容およびその後の経緯からすれば、「4人の犯人」という「目撃情報」なるものが捜査の攪乱を目的とした捏造で、そもそも信憑性がないからだとみるほかあるまい。

 しかし「少年冤罪事件」がそうであるように、こと矢野に限っては、虚偽だから主張を引っ込めるという単純な理屈は成り立たない。どれほど明らかに嘘と判断できようが何だろうが、自分に都合がいいと思えば徹底的に押し通すのが矢野のやり方なのである。

 そう考えると、矢野がこの「目撃情報」を口に出さなくなったのは、たんに捏造だからというだけでなく、矢野にとって何かよほどの不都合があったとみるべきなのかもしれなかった。

(つづく)
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『聖教新聞』事件 第50回
相手にされなかった「内部告発」

 平成20年9月1日、「行動する保守」Aが「現場で3人の怪しい男が確認されていたとする内容の『内部告発』があった」として東村山市内で街宣活動を行った。このことについても、矢野はインターネット版『東村山市民新聞』で〈新たな情報をもとに朝木明代議員謀殺事件究明に立ち上がった(「行動する保守」A)〉などとし、「内部告発」の内容については「新たな情報」と記載したのみで、具体的な中身にはいっさい触れなかった。

 明代の転落死後、20年間にわたって「真相究明」活動に取り組んできた矢野が、その解明につながる可能性のある「新たな情報」と持ち上げたにもかかわらず、その内容を具体的に明らかにしないとは不可解というほかなかった。最初に自分が公表した「情報」に酷似した情報を、「行動する保守」Aは矢野とは異なる情報源から入手したと主張しているのだから、むしろより信憑性の高い情報として宣伝することができよう。

 矢野は「行動する保守」Aが東村山で最初に開いた街宣活動には参加した。しかし「行動する保守」Aがさかんに主張した「内部告発」については一言も言及しなかったのである。これをどう考えればいいのか。

 矢野と朝木は平成27年3月1日に発行した『東村山の闇Ⅱ』でも「行動する保守」Aらを「朝木明代議員事件真相究明に立ち上がった人々」という見出しで一応「好意的」に取り上げた箇所がある。そのくだりを紹介しよう。



 ……2008年7月、インターネット上で朝木明代議員事件を取り上げ、真相究明を求める動きが現れた。瀬戸弘幸氏(「日本よ何処へ」)、黒田大輔氏(「日本を護る市民の会のブログ」)、西村修平氏(主権回復を目指す会)などである。

……

 2008年7月から、「行動する保守」系の人達が本格的に朝木明代議員事件の真相究明の斗いを開始した。案の定、後に裁判所が「創価御用ライター」と認定した人物や自分のブログで攻撃を加えたほか、名誉毀損訴訟を提起し、東村山警察・元副署長も多数の名誉毀損裁判を提訴した。



 私が確認した限り、『東村山の闇Ⅱ』には「行動する保守」Aが大言壮語した「内部告発」など影も形もなければ、『東村山市民新聞』では記載した〈新たな情報〉の文言すら存在しない。「内部告発」の内容は、それが事実なら「拉致犯」につながる「情報」である。しかもそれは矢野自身が最初に発信した「情報」に酷似している。にもかかわらず、矢野は「行動する保守」Aが主張した「内部告発」を完全に無視したのである。なぜなのだろうか。

 平成23年4月7日、「行動する保守」Aは「内部告発」が「伝聞の伝聞」、すなわちその出所さえたどることのできない与太話であることを(自覚があったかどうかは定かでないが)記載した陳述書を法廷に提出した。「内部告発」なるものが、捜査機関にはとうてい通用しないたわごとであることを自白していた。

 しかし矢野が、「内部告発」なるものが与太話であるという事実を知っていたとしても、デマ宣伝に利用しようとする気があれば、ここまで無視することもなかろう。「内部告発」に対する矢野の距離の置き方はやはり不自然というほかないのだった。

「与太話」の疑念

(本当は)矢野が最初に発信した明代の「拉致情報」に関しては、「行動する保守」Aの支持者にとっては衝撃的な自白から2年後の平成26年6月18日、香川大学のT教授が、これまた「事実なら」という条件付きであるものの、矢野の「拉致情報」や「行動する保守」Aの「内部告発」の内容を裏付ける「目撃情報」の存在をブログで公表している。教授はその「目撃情報」を記載した陳述書を裁判所に提出したらしかった。

 その「目撃情報」の内容とは、「(創価学会から依頼された)2名の暴力団員が明代をビルの6階で抱え上げた状態で脅していたところ、誤って落としてしまった」というものだった。「脅していた」ということは、明代の意識ははっきりしていたということを意味しよう。「意識がはっきりしていた」のなら明代は抵抗しただろう。抵抗する大人をたった2人で抱え上げるというのは至難の業ではあるまいか。

 そんな話を教授は創価学会元副教学部長から聞いたという。元副教学部長は、その話を創価学会幹部から「聞いた」とのことである。しかし教授が発表した「目撃情報」を本当に元副教学部長が話したのかがまず不確かである上に、元副教学部長が聞いたという話を創価学会幹部が話したという確証も、創価学会幹部が「犯人」から本当にそのような報告を受けたという確証もない。つまり「行動する保守」Aが聞いたと言い張る「内部告発」と同じ「伝聞の伝聞」の条件をすべて満たした話であることがわかろう。

「伝聞の伝聞」ということは、「行動する保守」Aの例をみるまでもなく、その限りにおいては「与太話」と評価せざるを得ないということである。また、「2名の暴力団員が明代をビルの6階で抱え上げた状態で脅していたところ、誤って落としてしまった」という「犯行の態様」もかなり非現実的で、話自体にも与太話の匂いを十分に漂わせている。

公表しなかった理由

 もちろん、教授が陳述書を提出するに際して、元副教学部長の話にある当事者(「犯人」)に直接会って内容を確認し、同人の証言等の証拠を入手できる(あるいは「できた」)状況にあるとすれば、「伝聞の伝聞」などと一方的に批判することは慎むべきだろう。では、学究の徒であり、最高学府で学生を指導する立場にあるこの教授は、学者として通常は論拠(証拠)として採用しないと思われるこの「伝聞の伝聞」について裏付けを取っていたのだろうか。

 T教授によれば、T教授がこの「伝聞の伝聞」を最初に聞いたのは平成16年7月18日だった。すると、この「伝聞の伝聞」をT教授が法廷に提出したのはそれから9年後であることになる。

 教授が聞いたとする話の内容が事実とすれば、これは明代の転落死を「万引きを苦にした自殺」とした捜査機関の結論を覆すきわめて重大な証言である。教授は最初にこの話を聞いた時点でなぜ公表しなかったのだろうという疑問が出てくるのは当然だろう。

 教授はいうまでもなく学究の徒だから、憶測や伝聞が証拠にならないことは当然承知している。だから教授は学者の倫理として、また社会的責務として、重大な証言ではあるものの、これを「証言」として公表するには裏付けを取る必要があると考えていた――。この重大な「証言」を9年間も放置していた理由として、その可能性も十分に考えられよう。

 仮にそうだとすれば、この9年の間に教授は「伝聞の伝聞」の内容が事実であることの裏付けが取れたということなのだろうか。まただから、社会に向けてもブログでこの重大な「拉致情報」を公表したということだったのだろうか。

(つづく)
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『聖教新聞』事件 第51回
噛み合わない回答

 教授が明らかにした「2人の暴力団員が明代を抱え上げて脅している途中、誤って落とした」という「拉致・殺人説」は、平成7年に正体不明の男が電話をかけてきて話した内容(=その後、音沙汰なし)、矢野が『週刊宝石』でコメントした内容(=以後、いっさい言及さえなし)、「行動する保守」Aが主張した「内部告発」(=平成23年4月に「伝聞の伝聞」すなわち与太話であることを自白)に比較すると、基本情報である「犯人」の人数に変遷がある。しかし、「明代の転落現場に不審者が存在し、転落させた」という内容である点においてよく似た話であることに違いはなかった。

 矢野が最初に主張した「拉致説」と「行動する保守」Aの「内部告発」はいずれも与太話であることが確定している。では、T教授が公表した「拉致・殺人説」にはなんらかの信憑性があるのだろうか。「9年前に聞いた」(=教授の説明)時点では「伝聞の伝聞」にすぎないこの「拉致・殺人説」をT教授が平成25年になって公表したのは、その間に裏付けを確認し、満を持して公表するに至ったということだったのか。

 仮にT教授がこの「伝聞の伝聞」を裏付けもなく公表に及んだとすれば、教授は「行動する保守」Aと同等の口舌の徒ということになるが、事実はどうなのか。明代の転落直後から捜査を指揮し、現場の状況に第三者が介在した痕跡がないこと、不審者の目撃情報がないことなどを確認している千葉は、教授に直接聞いてみることにした。

 千葉は教授にファックスを送付し、「『行動する保守』Aが主張する『内部告発』との関連はあるのか」「この『伝聞の伝聞』の裏付けはあるのか」「この重大な『証言』を9年間も放置した理由」などを聞いた。これに対してその4日後、教授から千葉に対して内容証明が届いた。しかしその内容は、千葉の率直な疑問に正面から答えるものではなかった。

 教授は「答えるのはやぶさかではない」としたものの、千葉が「元東村山事件初期捜査指揮者」と名乗っていたことについて「経歴詐称」であると主張し、「なぜそのような肩書を使うのか」「誰に頼まれたのか」などについて釈明を求め、「不可解な点が解消された後」回答すると答えた。これに対して千葉は「経歴を詐称した事実はない」とのみ回答し、「経歴詐称をした」とする決め付けを前提とする教授のその他の求釈明には応じなかった。

 そもそも千葉が「元東村山事件初期捜査指揮者」と名乗ったことをことさら「肩書」とみなし、「そんな地位はないから肩書を詐称した」などと決め付ける必要がどこにあろうか。自己紹介程度に考えればすむことだろうと思う。つまり、「そんな肩書はない」と主張すること自体、あえて揚げ足を取り、論点をすり替えようとしたようにしかみえない。どんな回答をしたところで教授の「不可解な点」が解消することはなく、教授が質問に正面から答えることはないと千葉は判断したのである。

「内部告発」と同レベルの疑い

 教授はこの間の千葉とのやり取りをブログで公表しているが、やはり何度読んでも、教授が千葉の質問に答えない理由は理解できない。仮に教授が千葉に答えるのが気に食わないというのなら、千葉ではなく読者に対して「9年間公表しなかった理由」と「『伝聞の伝聞』の裏付け」を堂々と明らかにすればすむのではあるまいか。

 しかしいまだ、教授は「伝聞の伝聞」の裏付けを明らかにしない。つまり教授が9年間も放置して公表しなかった「拉致・殺人説」は「行動する保守」Aの「内部告発」と同レベルのもの、すなわち与太話の域を出るものではないと判断する以外にないことになる。

 一方、教授が平成25年6月18日ブログで最初に「拉致・殺人説」を公表したあと、矢野はどんな反応をしたのか。平成23年4月、「行動する保守」Aは「内部告発」が「伝聞の伝聞」であることを自白し、矢野が「新しい情報」と一応紹介した話は与太話だったことが確定した。あたかもそれをフォローするかのようなタイミングで出てきたのが教授が聞いたとする「拉致・殺人説」だった。

 しかし、矢野が教授の情報に関心を示したフシはない。その代わりに大々的に教授を持ち上げたのが、「内部告発」の自滅で恥を晒した重鎮の「行動する保守」Aだった。「行動する保守」Aは教授が新たな「拉致・殺人説」を公表してから1年後の平成26年8月31日、東村山駅前で街宣を行い、その演説の中で取り上げたのである。街宣の開始前には、参加していた人物から電話でT教授を紹介されていた。

「内部告発」が「伝聞の伝聞」であることが露顕して面目丸潰れとなった「行動する保守」Aにとってはなにか、教授から助け船を出してもらったような気でもしていたのだろうか。仮に教授のいう「拉致・殺人説」が事実と立証されれば失われた重鎮のプライドは回復されるだろう。

 とすれば、「行動する保守」Aが東村山駅東口で開催した街宣はもう少し大々的に行ってもよかったようにも思えた。しかし街宣で「行動する保守」Aは、教授の「拉致・殺人説」を持ち上げはしたものの、矢野は街宣に顔さえ出さず、それどころか「行動する保守」Aはかなりの時間を割いてこの街宣が矢野や朝木とは無関係であることを繰り返し説明したのだった。

そんな説明をする暇があれば、教授が主張する「拉致・殺人説」にどれほどの信憑性があるのかを説明する方がはるかに有益だろう。しかし「行動する保守」Aは、「また『伝聞の伝聞』の話ですか」という私の問いに「あんたには用がないんだよ」というだけで、いっさい答えようとはしなかった。

(つづく)
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元市議名誉毀損事件 第2回
西村修平の代理人に弁護を依頼

 平成27年11月30日、元東村山市議の山川昌子が名誉を毀損されたとして同市議の矢野穂積と朝木直子(いずれも「草の根市民クラブ」を提訴していた裁判の第1回口頭弁論が開かれた。原告山川昌子と、被告側は東村山市議の朝木直子と代理人の田中平八弁護士が出廷したが、矢野(社会福祉法人「林檎の木」理事長でもある)は出廷しなかった。のちに朝木が説明したところによれば、矢野は月水金は差し支えがあるとのことだった。退院したと聞くが、病気と何か関係があるのだろうか。

 田中平八弁護士といえば、平成20年9月1日に「行動する保守」Aとともに東村山駅前街宣を主催し、「朝木明代の謀殺事件を自殺として処理した」などと元東村山警察署副署長千葉英司を誹謗中傷し、千葉から提訴された西村修平の代理人を務めた人物――といえばわかりやすいかもしれない。その裁判では矢野と朝木のいいなりになって裁判を進めたが、その主張はことごとく排斥され、西村に10万円の支払いが命じられた(なお、西村はまだ千葉に対する損害賠償をわずかしか支払っていない)。この弁護士で大丈夫なのだろうか。

 さて、矢野側の答弁書は第1回口頭弁論前日の同年11月29日、速達郵便でようやく原告の手元に届いた。

 原告は矢野が発行する『東村山市民新聞』第186号に掲載された2本の記事について「原告が詐欺に関与した事実はない。しかし記事は、原告が詐欺事件に関与したとの虚偽の事実を摘示し、原告の名誉を毀損した」(趣旨)と主張している。これに対して矢野らは答弁書でどんな主張をしていたのか。

「政治宣伝紙」を否認

 答弁書では、原告の主張する事実についてそれが事実と認めるか事実とは認めないか、正当な主張と認めるかそうとは認めないか(=認否)を最初に答え、それぞれの認否に応じた主張をするのが通常のやり方である。

 訴状に記載された項目のうち、矢野はまず「第1」として記載された当事者の職業、『東村山市民新聞』の発行部数や配布状況等について、型通りの認否を行い、否認した箇所についてはその理由について主張していた。たとえば原告は『東村山市民新聞』について、「矢野と朝木の政治宣伝紙」とし、「1号当たり4万5000部発行し、市内に各戸配布している」などと記載していた。

 上記の記載に対して矢野は、同紙の発行部数と配布形態に関しては〈認める〉と明記し、原告が同紙を「矢野と朝木の政治宣伝紙」としていた点に対しては、〈被告両名の単なる政治宣伝紙ではなく、公正な立場で東村山市に関する情報を同市の市民に提供しているミニコミ紙である。〉と主張していた。矢野のこの記載は、前段は「認める」と明記しており、後段については「否認」の文言はないものの、原告が主張する論点を明確にした上で否定しているから、後段は「否認」の意思表示であると判断できる。つまりここまでは認否を行い、否認した部分については矢野の主張を記載していることが明らかで、通常の答弁書の内容であるといえた。

見当たらない主要部分の認否

 ところが本件の訴因である訴状の「第2 不法行為」、原告が〈(『東村山市民新聞』の記載は)「原告が詐欺事件に関与した」との虚偽の事実を摘示し、原告の人格的価値について社会から受ける客観的評価を著しく低下させるものである。〉と主張している箇所に対する答弁は「第1」に対するものとはやや趣が違っていた。矢野はこう主張していた。

(記事1に対して)

〈事実は、「東村山市民新聞」186号の1面及び2面に記載されているとおりである。〉

(記事2に対して)

〈事実は、同記事2に記載されているとおりである。〉

 矢野はこう主張した上で、〈(被告らが)虚偽の事実を摘示して原告が社会から受ける客観的評価を低下させたことはない。〉と主張していた。

 訴状の「第2 不法行為」は、この裁判の根幹部分である。原告山川は、記事が「山川が詐欺事件に関与したと記載したもの」と主張している。矢野はこれに対して「事実は、記載されているとおりである」と主張しているのだが、記事1、2には山川に関する事実以外の事実(事実かどうかはわからないものも含めて)も記載されており、矢野がここでいう「事実」が具体的に何を指しているのかわからない。

 したがって、「第2 不法行為」に対する答弁は、何も答弁していないのと同じというほかなかった。「第1」に対する答弁では明確な認否が記載されていたが、ここでは認否がなされていないことからも、明らかに対応が異なることがわかる。認否を先送りしたい、すなわち裁判の進行を見ながら対応を決めようとする意思の表れのようにも思われた。

裁判官も同じ見解

 開廷後、裁判官はまず原告山川昌子に対して訴状と書証の確認を行い、次いで被告代理人に対して答弁書の陳述について確認を求めた。するとこれに対して、田中平八弁護士は起立した上で、裁判官から聞かれてもいないのにこう述べた。

「次回に真実性の立証を準備します」

 と。「真実性の立証」とは「『山川昌子が詐欺事件に関与した』とする事実の真実性を立証する」ということにほかならない。訴状の「第2」に対する曖昧な答弁内容からは想像しにくい強気な姿勢である。この弁護士は西村の裁判のときにも最初はやけに強気を装っていたと記憶するが、仮に「『山川昌子が詐欺事件に関与した』とする事実」の真実性を立証できなければ、今回もはったりをかましただけということになるが、はたしてどうなるのだろうか。

 裁判官は「わかりました」と答え、原告に対して次回までに答弁書に対する反論および陳述書を提出するよう命じて終わりにしようとした。そのときである。山川が裁判官に向かって手を挙げ、発言を求めた。山川は裁判官に対してこう述べた。

「答弁書における〈事実は、「東村山市民新聞」第186号の1面及び2面に記載されているとおりである。〉〈事実は、同記事2に記載したとおりである。〉とは、「記事は原告が詐欺事件に関与したとの事実を摘示している」と認めるものと理解してよいか、端的に答えるよう求めます」

 山川は訴状の「第2 不法行為」に対する答弁内容について被告らに釈明を求めているのだった。これだけで答弁書のどこを指しているのか裁判官に伝わるだろうかと心配したが、裁判官は山川に「答弁書のどの箇所ですか」と聞くこともなく答弁書を確認すると、田中弁護士に向かってこう述べた。

「そうですね、この部分は何のことをいっているのか不明確ですので、次回に明確な答弁を出してください」

 裁判官もこの箇所については答弁をごまかしていると感じていたのかもしれなかった。田中弁護士は裁判官に一言も反論せず、「はい」と素直に命令を受け入れた。そう指摘されても仕方がないことがわかっていたかのようだった。矢野側は次回までに本件の根幹部分に対する態度を明らかにしなければならないが、代理人が「真実性を立証する」と陳述した以上、その発言に反する答弁はできないのではあるまいか。

 第2回口頭弁論は平成28年1月18日午後1時10分(407号法廷)と決まった。次回は本件の方向性を左右する重要な弁論となりそうな気配である。

(第2回口頭弁論以降につづく)
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