ブログマガジン エアフォース
ブログで興味深い記事を公開していきます。
著書紹介

民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒

『民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒』(ユニコン企画発行、長崎出版発売、1200円+税)

現在の“東村山の闇”の原点である議席譲渡事件と女性市議転落死事故についてのルポルタージュ。今は絶版となっていて書店では買えないが、手元に在庫があるので、希望の方はこちらにメールしてください。書籍代+送料でお分けいたします。

最近の記事

カテゴリ

プロフィール

Author:プールマン

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

QRコード

QR

FC2カウンター

右翼M事件 第7回
事実と矛盾する主張

 平成23年6月22日に開かれた控訴審第1回口頭弁論は、裁判長が当事者双方に対して提出書面の確認をすると、「主張は出そろったと思います」としてただちに終結を宣言した。これに対して右翼Mも千葉もいっさい異議を申し立てなかった。

 控訴棄却を主張している被控訴人の千葉からすれば、弁論の終結とは新たな審理に入らないことと理解でき、この進行に特段の異議がないのはうなずけよう。しかし私には、控訴した右翼Mが黙って裁判官の指揮に従ったことにはやや違和感があった。右翼Mが提出した控訴理由書は、わざわざ第1回口頭弁論3日前の深夜に千葉のもとに送りつけてきたことだけでなく、内容的にも少なくとももう1回の審理を行うよう主張してもおかしくないとみえたからである。

控訴理由書で右翼Mは、

〈タイトルにも小見出しにも被控訴人の氏名は記述されていない。〉

〈犯罪性を持つ創価学会の所業を糾弾することを目的とした記事において、一連の経過説明を行う中で、被控訴人の氏名が部分的に記載されているにすぎない。〉

 としてまず名誉毀損の存在そのものを否定。その上で「朝木明代の転落死事件は殺人事件であると確信している」などとしてその理由と、「そう信じていること」の正当性を主張している。一審での主張の繰り返しでもあり、控訴審においてどの程度有効な主張であるかは定かでないが、右翼Mの物事に対する判断基準や考え方、さらには右翼Mが矢野と朝木の主張をどのような経緯で信じるに至ったかなどにも触れているという点で興味深い。あらためて右翼Mの主張をみよう。



 被控訴人としては……東京高等裁判所平成21年3月25日判決(筆者注=「東村山の闇」の記載をめぐり東京高裁は〈矢野らにおいて「朝木明代は殺された」と信じたことについて相当の理由がなかったとはいえない。〉などときわめて消極的ながら相当性を認定して千葉の請求を棄却した。しかしもちろんこの判決は、明代の「万引き捏造説」と「他殺説」が真実であると認定したものではない)及び、その焦点となった判決文中の「本件著作物」である「東村山の闇」を熟読した結果、朝木事件は殺人事件であり、万引き事件はでっち上げであるとの、確信をもったものであり、上記判決と異なる判決が出ていたとしても、控訴人が知る由はなく、上記判決内容を信じて、政治的論評としての政経通信を作成したことは何らの違法行為に当たらないことは、言うまでもない。



 ここで右翼Mは重大な自白をしたことに気づいているだろうか。右翼Mが朝木事件について、朝木の万引きは「捏造」で転落死は「他殺」であるとの「確信を持った」のは矢野と朝木直子による「東村山の闇」と、「東村山の闇」の記載を問題にして千葉が提訴した裁判の判決であると右翼Mはいっている。

 右翼Mが「行動する保守」Aらの「真相究明を求める」とする街宣に最初に参加したのは平成20年9月1日である。右翼Mはこの日、「万引き事件を捏造した」などと主張して万引き被害者の店にまで押し入ろうとした。右翼Mはこの時点ですでに朝木の万引きは「捏造」で転落死は「他殺」であるとの「確信」を持っていなければ、ここまでの言動はとれないだろう。

 右翼Mは明らかに「朝木明代は万引きの汚名を着せられて殺された」との確信を持っていたからこそ万引き被害者の店に押し入ろうとしたと見るべきである。すると、右翼Mの行動に現れた事実と控訴理由書の記載内容には明らかな矛盾があるということになる。

 この時点で「東村山の闇」は発売されているが、「東村山の闇」裁判の東京高裁判決は出ていない。あえていえばこの時点では「東村山の闇」裁判の一審判決がすでに出ており、結果だけでいえば矢野と朝木に対して30万円の支払いが命じられている。つまり右翼Mは、「東村山の闇」裁判の結果とは関係なく、洋品店襲撃事件の時点ですでに「万引きは捏造」で転落死は「他殺」であるという彼なりの「確信」を持っていたということになろう。

 せいぜい右翼Mは「東村山の闇」判決によって、矢野と朝木の記載によっても名誉毀損に問われないなら、自分がそう書いても問題ないと考えたというにすぎないのではあるまいか。右翼Mの判断において、記事の相当性を主張するのに「東村山の闇」判決は有効と思えたのだろう。しかし「東村山の闇」の表現内容と政経通信の表現内容およびその根拠が異なることは明らかで、裁判所でそんな主張が通用するはずもなかった。

「信じること」と「公言すること」

 さらに右翼Mは「何を信じるかは自由だ」として一審判決を批判している。右翼Mの考え方をうかがい知ることができる貴重な具体的実例(社会には通用しない実例)として紹介しておこう。右翼Mは次のように主張している。



 原判決では「他に被告が本件窃盗被疑事件や本件転落死事件においては、本件窃盗被疑事件が冤罪であることや本件転落死事件が殺人事件であることを被告が信じるについて相当な理由があったとは認めることができない」、と断じているが、信じるか信じないかは控訴人の内面的心情の問題であり、原判決で一方的に「信じた事」を認めないなどと断定できるものではない。



 右翼Mが何によって「朝木明代は殺された」と信じようが自由であることは間違いない。しかしそのことと、右翼Mがそう信じたことについて裁判所が相当の理由があったと認めるかどうかはまったく別の話であることを右翼Mはそろそろ理解した方がよかろう。

 何をどう信じるか(右翼Mのいう「内面的心情」も含む)について裁判所がそのこと自体を否定しているわけではない。しかし、その信じたことを不特定多数に向けて公言しようとすればそれはまた別の話で、その場合には自ずと責任が生じる。だから公言するに際してはより慎重でなければならないし、相当と認められる根拠がなければならないといっているのである。右翼Mならずとも「行動する保守」一行は今後この点をよく理解しておく必要があるのではあるまいか。
 
(つづく)
関連記事

TOP