ブログマガジン エアフォース
ブログで興味深い記事を公開していきます。
著書紹介

民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒

『民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒』(ユニコン企画発行、長崎出版発売、1200円+税)

現在の“東村山の闇”の原点である議席譲渡事件と女性市議転落死事故についてのルポルタージュ。今は絶版となっていて書店では買えないが、手元に在庫があるので、希望の方はこちらにメールしてください。書籍代+送料でお分けいたします。

最近の記事

カテゴリ

プロフィール

プールマン

Author:プールマン

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

QRコード

QR

FC2カウンター

太田述正事件 第5回

独自調査の皆無を正当化

 ブログでの見解表明(前回)から約3週間後の平成18年4月28日、太田は400字詰原稿用紙にして50枚にも及ぶ答弁書を提出した。はたしてその主張は、ブログにおける自己中心的な認識から少しは現実をふまえたものになったのだろうか。

太田は答弁書で、

①「原告が問題視している箇所は他人の著作物の引用紹介である」
②「その要約紹介には公共性・公益性がある」③「部分的に不正確な要約紹介があった」
④判例学説
⑤「私は原告の社会的評価を低下させていない」
⑥「よって訴えの棄却を求める」

 という6項目について主張を展開している。具体的にみよう。

①「原告が問題視している箇所は他人の著作物の引用紹介である」

 ここでは千葉が名誉毀損であると指摘した箇所(本連載3回目で紹介した太田ブログの前段部分)が「要約紹介」であるとした上で次のように主張している。

〈原告(千葉)は、当該コラム中のこの本の要約部分に「虚偽性」があり、原告本人の「社会的評価をいたく低下せしめた」と主張しているところ、この本の著者または出版社を追及するのならともかく、この本の内容の単なる要約・紹介者に過ぎない私(太田)を追及するのは筋違いである。(ちなみにこの本は、現在も引き続き販売されている)
 仮に、発言や出版物において引用した本等の内容の非虚偽性(真実性)について、引用した者が証明しなければならない、ということになれば、世上のほとんどの発言や出版ができなくなり、表現の自由は有名無実になってしまうだろう。〉

 ――前回も述べたとおり、問題のコラムの前段部分は、太田自身がコラムで「昭代(ママ)市議をビルから突き落として殺害した人間は創価学会関係者の疑いが強かったため、彼らは公僕としての義務よりも創価学会への忠誠を優先させ、創価学会の組織防衛に走ったと思われます。」と書いているのであり、コラム全体の結論の重要な前提としている点からすれば、太田がここで主張するような「単なる要約・紹介」とはいえまい。太田は表現の自由について言及するが、他人の著作物の内容に基づいて論評を行おうとする者は、とりわけ『東村山の闇』のような引用によって第三者の社会的評価の低下につながる恐れがある著作物についてはより慎重に扱わなければならないということではないだろうか。

 普通、ジャーナリズムに携わる者は、取材が十分でないと考えれば「書けない」と判断し、記事にすることはひかえる。これはジャーナリスト自身の判断の問題であり、「表現の自由」の問題ではない。

 したがって、「著者本人ではなく太田を追及するのは筋違いである」とする主張についても、コラム執筆者である太田が一定の認識に基づいて紹介した部分について問題にしたものであって、「筋違い」ということにはならないだろう。なお、千葉はすでに平成16年3月4日、『東村山の闇』をめぐって矢野と朝木を提訴しており、同じく東京地裁で係争中だった。ちなみに、太田裁判を扱うことになったのは『東村山の闇』裁判を審理している民事28部だったことも付言しておこう。

 さらに太田はこの項で、『東村山の闇』の内容を真実と信じたことについての相当性を主張している。しかしその主張は、現実社会では通用しにくいのではないかと思われた。太田はこう主張している。

〈当該コラムの導入部の記述の真実性を調査することは私には事実上不可能であった上、そもそも私はその内容を真実と信じる相当の理由があった、ということを付言しておきたい。

 私には部下はおらず、協力者もほとんどいないため、執筆材料の独自取材は原則として行わないこととし、もっぱらインターネットと公刊書籍に依拠して執筆している。その私が、インターネットや公刊書籍の記述の真実性を調査することは不可能に近い。

 また、当該コラム導入部が典拠としたこの本は、東村山事件を対象に、言及された捜査関係者から名誉毀損で訴えられたり、関係捜査機関によって報復的に微罪を追及されたりする懼れがあるにもかかわらず、転落死した東村山市議の同僚市議(公選された公務員)2名によって執筆され、歴とした出版社(第三書館)によって出版されたものであり、本の内容において、私が知っている事実に関し誤りがなかったこともあり、私としては当時、本の他の部分も真実性が高い、と判断する相当の理由があったと思っている。

 ちなみに、前述したように、(自発的にあるいは裁判等によって、絶版にされることなく、)この本が現在もなお市場に出回っていることは、私の当時のこの判断の妥当性を事後的に裏付けるものであると考える。〉

 ――たとえば『東村山の闇』で矢野がさかんに取り上げている『聖教新聞』裁判の裁判資料を閲覧することは誰にでもできるし、それを元に千葉本人に対して取材することがどうして不可能なのか。それが執筆方針だからだといわれても、私の認識の範囲では、現実社会から相手にされるような話ではない。

 公人2名によって執筆され、出版社が出版し、現在も売られていることが真実であるとの裏付けとなるかといえば、こんなことが裏付けとはなり得ないのは常識である。太田は「私が知っている事実に関し誤りがなかった」と主張するが、必要なのは太田が「知っている事実」を「何によって知ったか」なのである。太田が事件当時の『週刊現代』や『週刊新潮』『週刊文春』『文藝春秋』などで「知った」というのなら、これは法廷では「相当性がある」ということにはならないし、矢野・朝木と2つ週刊誌が「疑惑報道」の真実性・相当性を否定され、損害賠償の支払いを命じられていることは本連載の第1回で報告したとおりである。

 最初に「引用・紹介者にすぎないから責任はない」と主張した太田は、念には念を入れるつもりで相当性を主張したのだろうか。しかし私には、どうみても裁判所に通用する主張とは思えなかった。


(第6回へつづく)
関連記事

テーマ:裁判 - ジャンル:政治・経済

TOP