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『週刊現代』事件 第19回
最終準備書面における講談社の主張

 講談社は第一審の最終準備書面で朝木直子に対する筆舌に尽くしがたい不信感を述べたが、記事自体についても、朝木らのコメントが取材に基づくものであることを前提として違法性を否定する主張を行った。ジャーナリズムが事実に基づいて真実を追及しようとするものであるという常識からすると、私には違和感のある主張に思えた。

 講談社は最終準備書面の冒頭でまず次のように述べている。



(第一審最終準備書面における講談社の主張1)

 本訴は、週刊現代に掲載した朝木明代氏の死亡に関する記事における、同氏の遺族である被告朝木父子両名のコメントの引用部分が、原告教団の社会的評価を毀損するとして提起されたものである。原告教団が名誉毀損として特定した記述は、見出しも含めて全て遺族両名のコメントを引用したものであって、本訴は、このような死亡に際しての遺族のコメントの引用がメディアの報道行為において許容されるか否かを争点としたものである。



 この裁判はそもそも朝木父娘の発言およびそれを引用した『週刊現代』の記事が、「朝木明代は創価学会に殺された」とするもので、記事は創価学会の名誉を毀損するものであるとして創価学会が提起したものである。訴状にはコメントを引用したこと自体が違法であるとする主張はなく、裁判中においても特に争点になったことはない。

 一般的に考えても、メディアが関係者を取材し、コメントを求めることはよくあることで、当事者が取材を拒否しているなど特別な事情があった場合を除き、それ自体は特に問題となるものではあるまい。講談社は「(家族の)死亡に関しての遺族のコメント」の場合は例外だといいたいようにも受け取ることができる。しかし、創価学会はそのコメントの内容およびその取り上げ方と論調から、記事が「朝木明代は創価学会に殺された」と主張するものだから違法だと主張しているのである。したがって、本件の争点が「コメントの引用が許容されるか否かを争点としたものである」とする講談社の主張はかなり的外れなものといえるのではあるまいか。

「遺族の声を中立的に伝達」と主張

 原則としてメディアによるコメントの引用は許されるとしても、その内容によっては引用が無条件に許されるものではなかろう。〈遺族のコメントの引用がメディアの報道行為において許容されるか否かを争点としたものである〉と主張する講談社がコメントの内容を問わず、無条件に引用しても許されると考えているのかと思うとそうでもないらしかった。講談社は次のようにも述べている。



(第一審最終準備書面における講談社の主張2)

 本件報道について、被告講談社は不法行為責任を負担しない。それはまず第一に、本件報道が右のとおり「遺族の声」の伝達であり、その遺族が死亡についてその旨の意見を抱き述べているという「事実」そのものがそこで伝達されているのであって、遺族が述べたという「コメントの内容」を「真実」として伝達しているわけではないからである。

 これは人の口を借りて物事を伝えようとする主観報道と、本件のような客観報道の差として認識される。従って本件記事は原告が主張するように「原告創価学会が故明代氏を殺害した」などという事実を事件の「真相」として読者に伝えたものではなく、「原告教団が故明代氏を殺害した」という評価を形成するものではない。



 講談社は、たんに朝木らの「遺族の声」を中立的に紹介しただけで、そのコメントによって『週刊現代』としてそれが「真相」であると主張しているものではないと主張していると理解できる。本当に記事は中立的に紹介しただけのものと読者は読むのだろうか。

 記事は〈東村山女性市議「変死」の謎に迫る 夫と娘が激白! 「明代は創価学会に殺された」〉と断定するコメントをそのままタイトルにした上、記事中では朝木や大統のコメント〈「創価学会はオウムと同じ。まず汚名を着せてレッテルを貼り、社会的評価を落とす。そしてその人物が精神的に追い込まれて自殺したようにみせて殺すのです。今回で学会のやり方がよくわかりました。」〉(=朝木)、〈妻が自殺するはずがありません。この事件は創価学会と警察によってデッチあげられたとしか思えない。〉(=大統)を紹介したあと、彼らのコメントがもっともであると同意を示す一方、彼らのコメントを否定する文言はどこにもない。これでは朝木のコメントを借りて『週刊現代』の見解を述べたに等しいと評価されてもやむを得ないのではあるまいか。

「たんなる取り乱した嘆」

 遺族のコメントの引用が許される理由として講談社はもう1の理由を挙げている。コメントの内容自体が名誉毀損を構成するか否かという点に対する見解である。講談社は名誉毀損を構成しないとして、以下のように述べた。



(第一審最終準備書面における講談社の主張3)

 ……名誉毀損はその者の評価を形成するに足りる具体的な(説得力ある)事柄の伝達が必要とされるはずである。

 しかるに、本件各遺族の発言内容は、何ら根拠も示されていないまま断定的に述べられたものであり、平均的な一般読者にとってははなはだ唐突で感情に流されたものと受け止めざるを得ないものにすぎない。この発言は、なかば死亡を目の当たりにし取り乱した遺族の嘆として受けとめられるものなのである。



 しかし現実に発行された問題の記事には次のように朝木らの主張に理解を示す記載が並んでいる。

〈遺族たちは「殺人事件」と確信している。むろん、遺書は残されていなかった。〉

〈「……創価学会はオウムと同じ。まず汚名を着せてレッテルを貼り、社会的評価を落とす。そしてその人物が精神的に追い込まれて自殺したようにみせて殺すのです。今回で学会のやり方がよくわかりました……」

 直子さんはこう憤るのだ。〉

〈はたして真相はどうなのか。創価学会による犯行か否かは別にしても、事件を振り返ると、とても自殺とは思えない事実が次々と浮かびあがるのだ。〉

〈大統氏が、

「妻が自殺するはずがありません。この事件は創価学会と警察によってデッチあげられたとしか思えない」

 と憤るのも無理はない。〉

『週刊現代』は上記のように、朝木らの主張に理解を示す一方、その主張がまったく根拠がないまま断定的に述べられたもので、〈取り乱した遺族の嘆〉にすぎず、客観的信用性があるものではない――などの注釈はいっさい施していない。つまり、仮に『週刊現代』が朝木らの主張に客観的根拠がないと考えていたのだとしても、現実に発行された『週刊現代』ではむしろ朝木らの主張には客観的根拠があるかのように主張しているのである。記事からうかがえる『週刊現代』の意図からしても、上記「主張3」に説得力があるとは思えなかった。

 記事の真実性をめぐる名誉毀損訴訟において、訴えられた側は記事の真実性・相当性を主張・立証しようとするのが通常である。しかし、講談社側が一審で主張したのは上記3点だけだった。

(つづく)
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