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民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒

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元市議名誉毀損事件 第43回
「紹介」に関する矢野らの主張を否定

 一審の東京地裁が〈原告が松田を寺澤に紹介したことについては、これを認めるに足りる証拠がなく〉などとして記事の真実性、相当性を否定したことに対し、矢野らは控訴審で「山川から松田を紹介された」とする趣旨の供述を含む被害者の新たな陳述書を提出した。しかし東京高裁の本件記事に対する「一般読者の読み方」に対する認定は、一審の認定に〈「1860万円詐欺、元公明市議らが関与」、「創価、元市議らが仲介して」、「言葉巧みに、一般市民から、借りて1860万円も返さず」という見出しを併せて読むと〉との文言を加えるというものだった。

 また、公共性、公益性の認定においては〈本件記事は、……一般市民が詐欺まがいの行為の被害者となり、当時市議会議員であった被控訴人が関与していたというもの〉と明確に本件記事に対する認識を示していた。その時点で、本件記事の立証対象は「松田を被害者に紹介したのは山川だとする事実」ではなく「山川は詐欺まがいの行為に関与したとする事実」へと変わっていたといえる。

 では、被害者が陳述書で「山川から松田を紹介された」とする趣旨の供述をし、矢野がその供述に基づいて一審判決を否定したことに対し、東京高裁はどんな判断を示したのか。東京高裁は次のように述べた。



(「山川が松田を紹介した」とする事実に対する東京高裁の判断)

 控訴人らは、本件記事の内容は真実であると主張し、○○(筆者注=被害者)の陳述書を新たに提出するところ、同陳述書には、平成18年から19年ころに、自宅に洋服のお客さんなど知人数人が来ている時に被控訴人が「この人はマッサージをやっているのでよろしく。」と言って松田を連れて来た旨の陳述部分がある。

 しかしながら、本件記事は、既に述べたとおり、「1860万円詐欺、元公明市議らが関与」などの見出しと相まって、被控訴人が詐欺まがいの行為を行っている人物を被害者に紹介し、詐欺まがいの行為の仲介のような役割を果たしているという趣旨のものであるところ、○○の上記陳述書からは、被控訴人が松田の妹の塩田が詐欺まがいの行為を行っているのを知った上で、その口ききのために松田を○○に紹介したとの内容とはなっておらず、本件記事の真実性を裏付けるものではない。



 一審の判決理由からして、矢野らは被害者の上記供述を最も重要な部分と考えていただろう。しかし、ただ紹介したというだけでは、「山川が塩田の詐欺まがいの行為の口きき」をしたとの事実を裏付けるものとはならないとして、最初からあっさり否定されてしまった。

 矢野らはこの点について、被害者に新たな陳述書を依頼しただけでなく、その供述とそれまでの山川の供述を細かく比較検討した上で、論理性には欠けるが、一応それまで出ていた材料から最後はかなり強引な形で被害者の供述の方が信用できると結論付けていた。その努力も意味がないといわれたも同然だった。

「記載の時期を争う」と主張

 その上で、東京高裁は「被害者に松田を紹介したのが山川だったのか否か」をめぐる双方の主張について検討していた。

 被害者は新たな陳述書で〈平成18年から19年のころだったと思いますが、自宅に洋服のお客さんなど知人数人が来ている時に、山川さんが「この人はマッサージをやっているのでよろしくね。1時間でも2時間でも安くやってくれるわよ。」と言って、松田美枝さんを連れてきました。〉と主張。それに対して山川は答弁書で「私は松田から被害者を紹介されたのであって、松田を被害者に紹介したのは私ではない」と主張し、調べ直した結果、松田から被害者を紹介された時期も「平成12年8月15日」だったと主張していた。

 山川は控訴審の第1回口頭弁論で、松田から被害者を紹介された際のメモが記録されている平成12年度の東村山市議会手帳を証拠として提出した。山川はその際、その後に被害者宅に行ったことが記録されている平成13年と平成15年の市議会手帳も提出していた。平成12年度のものと記載内容を対比させるためだった。

 これに対して朝木直子は、「一部の記載はボールペンで書かれているから、これは絶対におかしい」として「記入の時期については争う」と主張した経緯があった。つまり矢野らは、「手帳は平成12年のものかもしれないが、記入したのは当時ではない可能性がある」と主張したのだった。

 山川が矢野らの主張に対する反論を提出したのは控訴審第1回口頭弁論の1週間以上前である。「被害者に松田を紹介したのが山川だったのか否か」について、山川は被害者の主張を真っ向から否定する主張をするとともに、手帳のコピーを送付していた。コピーでは「ボールペンで記入された箇所」があることがわからなかったとしても、日時については被害者が「平成18年から19年のころ」と供述しているのに対し、山川は「平成12年8月15日」と主張しているのだから、大きな開きがあることは確認できたはずである。

 第1回口頭弁論までにはまだ1週間以上あった。被害者の陳述書によれば、山川が松田を連れてきたとする時期だけでなく、山川の発言や「自宅に洋服のお客さんなど知人数人が来ているとき」という具体的な状況まで供述しているから、山川から手帳のコピーが提出されたあと、朝木は当然、あらためて被害者から事情を聞くべきではなかっただろうか。あるいは、聞いたけれども、陳述書以上の回答が得られなかったのだろうか。

 いずれにしても矢野らは、第1回口頭弁論で被害者から再確認した内容を主張すべきだったのではあるまいか。ところが矢野らは、時期の具体的内容に踏み込んだ反論はいっさいせず、「ボールペンで記入している」といい、「記載の時期を争う」としか主張しなかったのである。予定の日時までに、新たな予定が入るたびに予定が加えられることはあり得るのであり、筆記用具が変わったとしてもなんら不自然ではない。

 被害者から新たな供述を得ていたにもかかわらず、「山川から松田を紹介された」とする時期について矢野らはなぜ具体的な反論をしなかったのか。そのことの方がむしろ不可解だったのである。

(つづく)
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