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著書紹介

民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒

『民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒』(ユニコン企画発行、長崎出版発売、1200円+税)

現在の“東村山の闇”の原点である議席譲渡事件と女性市議転落死事故についてのルポルタージュ。今は絶版となっていて書店では買えないが、手元に在庫があるので、希望の方はこちらにメールしてください。書籍代+送料でお分けいたします。

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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第11回
「気落ちした様子はなかった」という説明

 冷静な報道を行った一般紙に比べ、夕刊紙は積極的に矢野らの主張を取り上げた。9月3日付『夕刊フジ』は1面トップで「反創価学会東村山女性市議ナゾの死」「遺族は『他殺だ』」との見出しで「他殺」の可能性を匂わせる一方、それらの見出しよりもはるかに見えにくい位置、はるかに小さいフォントで「警察は『自殺』の見方」との見出しを付けていた。しかし、リード文に「東村山警察署は、自殺の線が強いとしているが」とあるのみで、本文には警察が自殺と見ている理由はいっさい記載されていなかった。転落現場で明代が救急車を断った事実も記載していなかった。

 同年9月5日付『夕刊フジ』、『日刊ゲンダイ』も事件を取り上げているが、どちらも矢野の言い分を記事の中心に据えていて、「自殺」とは断定できない多くの「状況証拠」があるかのような書き方になっていた。その「状況証拠」の中で共通しているのが、矢野が説明する「事務所の状況」だった。たとえば9月5日付『夕刊フジ』には次のような記載がある。

「(9月1日夜)朝木氏は高知県で行われる反創価学会市民グループの集会で講演を控えていたため事務所でレジュメを1人で作っていた。その日行動をともにしていた矢野氏が市内の高齢者施設建設に関する会合に出席するため、午後7時ごろ別れ、午後9時に事務所へ戻ってきてみると、姿を消していた。

『出るときはいつもクーラーや電気を消していくのにすべてつけっぱなし。ワープロも途中そのままになっている。高知に行くのも楽しみにし(ていた)』」

 事実かどうかは別にして、矢野が発信するこれらの具体性のある説明が一定の説得力を持ったことは事実なのではあるまいか。一部のマスコミは「明代には自殺するような様子はなかった」と受け止めたのかもしれなかった。

 上記のうち、「その日行動をともにしていた」というのは、9月3日付『朝日新聞』が記載した「1日午後は書類送検された窃盗容疑事件で弁護士と打ち合わせをした」とのことであると理解できる。これらの矢野の説明がいおうとしているのは、明代は万引き事件で書類送検されていたものの、いっさい気落ちした様子はなかったということだった。

 しかし、9月1日夜、明代はワープロでレジュメを作成いたというのだが、本当にそのような気力があったかどうか、そのことを疑わせる事実が数年後に明らかになった。そのことを判断するのに重要なカギを握るのは、9月1日夜までの明代の行動だった。

「9月1日の明代の行動」

 あらためて9月1日の明代の行動について確認しておこう。『東村山の闇』で直子は次のように記載している。



(『東村山の闇』に記載された9月1日の明代の行動①=直子の記載)

9月1日の朝、矢野さんと母は小坂さんとおち合い、都庁に「宗教法人法改正」の陳情を出しにいき、そのあと怪我をして入院している母の代理人の弁護士を訪ねて、『万引き捏造事件』に反撃するための打合せをしている。

――略――

筆者注=弁護士が明代に対して裁判になっても勝てるとの見方を伝えたとの趣旨の記載があり、続けて明代の「決意」が記載されている。)

 なるほどそうでしょう、これからが私たち『草の根』の反撃と真相究明の本番です。同じ「不起訴」でも、「起訴猶予」や「嫌疑不十分」では納得できない。はっきりと「嫌疑なし」にならなければ意味がないから、そうでなければ、逆に裁判でたたかうつもりです。この民主社会で、こんな謀略のようなことが警察も絡むようなやり方であってはならないはずです。と母は決意を新たにしていた。



 弁護士との面会前とそれ以後の明代の行動について、矢野も次のように記載している。



(『東村山の闇に記載された9月1日の明代の行動②=矢野の記載)

筆者注=矢野と明代は)昼過ぎの電車に乗り、都庁では、陳情の世話をしている小坂さんと一緒に都議会事務局に「宗教法人法及び関係税法の抜本改正を求める陳情」を提出した。入院している弁護士のところに立ち寄って、お見舞いを兼ね、打合せをした。新宿に戻った時は、時計はもう5時半をまわっていた。

 翌日は『すこやか昼食会』が終わった後、その足で、高知での「創価学会問題シンポジウム」に飛行機ででかける予定となっていた。

「講演原稿が仕上がっていないので、今日は「半徹夜」になるかもしれないので、ちょっと、早いけど、食べられるときに『夜ごはん』を食べておかない?」と彼女は提案し、会議に9時までかかる私も、同じ気持ちだった。西武新宿駅に向かう途中の地下で夕飯を済ませ、「事務所」にかえりついたのは7時前になっていた。



 95年9月1日、明代は昼過ぎから午後7時までいつもと変わらず元気に活動していたのだと、矢野も直子も説明している。この点は9月2日付け『朝日新聞』や『東京新聞』、さらにはこれまで紹介した夕刊紙の記載と同じである。弁護士に会いにいったというのは、万引き事件で東京地検から「9月5日に出頭するよう」呼び出しがあったからだと理解できた。

 矢野と直子の上記の説明はきわめて具体的であり、それを読むかぎりでは説得力があるように思える。そこまで作り話をする者はいないだろうと考えるのが普通の感覚でもあろう。ところがその後、上記の説明そのものが虚構だったのではないかと思わせる事実が判明したのだった。

(つづく)
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