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著書紹介

民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒

『民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒』(ユニコン企画発行、長崎出版発売、1200円+税)

現在の“東村山の闇”の原点である議席譲渡事件と女性市議転落死事故についてのルポルタージュ。今は絶版となっていて書店では買えないが、手元に在庫があるので、希望の方はこちらにメールしてください。書籍代+送料でお分けいたします。

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「東村山」の民主主義汚染を検証する 第1章 遺族の主張とメディアの報道  第12回
矢野の説明に反する目撃談

 矢野と直子は万引き容疑について明代は最後まで闘うつもりだったと主張しているが、その説明とは相反する目撃談が3つあった。

 1つは、書類送検後、明代が万引き現場の洋品店の近くに自転車を止め、じっと洋品店の方を見ていたというものである。その顔は「般若のようだった」という。身に覚えがないのなら、淡々と戦う準備をすればいいのであって、当事者のところに行く必要があるとは思えない。その必要があるとすれば、謝罪して被害届を取り下げてもらうこと以外にはない。明代はこのとき、謝罪して早く楽になりたいという思いと、社会の非難を浴び、それまでの社会的地位も名誉も信用も、すべてを失った自分の姿をまざまざと思い浮かべていたのかもしれない。

 矢野と直子が弁護士に面会に行ったと説明する日の前日である8月31日には、印象的な2つの目撃談があった。取り調べ期日が決まり、明代は精神的に追い詰められ、自分を失いそうになっていたのではないかと思わせるものだった。1つは、明代が市役所付近でぼんやり自転車で走っていて市長の公用車にはねられそうになったということ。もう1つの情報は、それ以上により当時の明代の心中をうかがわせるものだった。明代は万引き事件でアリバイ工作に使ったレストラン「びっくりドンキー」に再び姿を見せていたのである。

 明代に気づいていた「びっくりドンキー」の店長によれば、「またレシートのことをいわれるのではないかと警戒していたが、結局、明代は食事をしただけで何も要求しなかった」。しかし、店長がレジで精算したとき、明代の顔は異様に青白かったという。「具合でも悪いんじゃないですか」と尋ねそうになったほどだったから、よく覚えていたのだと店長はいった。

 明代はこの日、矢野が書類送検後に「レギュラーランチ」からメニューを変更した「日替わりランチ」で、アリバイを証明するようなレシートがあるのかどうか確認したかったのだろう。藁にもすがる思いで。

 レジを担当したのはこれまで何度もレシートを要求した店長だった。しかし明代がもう何も要求しなかった。明代がレシートについて何もいわなかったのは、そもそも最初にアリバイを崩された「レギュラーランチ」のレシートが条件に合致した唯一のものだったこと、書類送検された7月12日にも店長にレシートを要求したものの、「ほかにはもうありませんよ」と強い口調で断られていたことを思い出したのだろうか。

 なにより、びっくりドンキーにアリバイを証明するレシートなどあるはずがないことは、万引き犯である明代自身が一番よく知っていた。仮に「日替わりランチ」のレシートをもらえたとしても、東村山署の取調室でアリバイを崩されたときと同じように、結局は自らの首を絞めることになることがよくわかっていたのだろう。

 このときの明代の姿は、どうみても矢野や直子がいうように、万引き犯の汚名を晴らそうと「決意を新たにしていた」人物のようにはとてもみえない。東村山署の取調室でアリバイを崩された明代の本心を推測すると、東京地検から出頭の具体的な期日が指定された時点で、来るべき時が来たと明代がわが身を悲観していたとしても不思議はない。

 8月31日、それほど異様な様子が目撃されていた明代が、いくら矢野がついていたからといって、まるで別人のように意気軒高になるものだろうか。9月1日午後7時までの明代の行動に関する事件当時の矢野の説明を聞いたとき、かなりの違和感がないではなかった。しかしその一方で、矢野の説明を覆す根拠もなく、またいかに矢野でもそこまで虚偽の説明はしないのではないかという思いがあった。

 拙著『民主主義汚染』では、9月1日午後7時までの明代の行動については矢野の説明に基づく記載をした。しかし、上記に関して、筆者の判断が誤りだったことがのちに判明したのだった。

9月1日の「明代の行動」に疑問

 矢野と直子によれば、朝木明代が東村山駅前のビルから転落した95年9月1日、明代は東京都庁に行って陳情書を提出したり、東京地検での取り調べに備えて弁護士と面会するなどいつもと変わらず元気だったという。そんな明代が自殺などするはずがないと。

 ところがその日、明代は東京都庁にも弁護士のところにも行かず、ずっと自宅に引きこもっていたとすればどうだろうか。9月1日、明代がずっと自宅にいたということになれば、矢野と直子の説明と「自殺するような様子はまったくなかった」とする主張は大きく揺らいでこよう。

 それだけではない。矢野と直子は事実でないと知りながら虚偽の説明をしたことになり、なぜその日の明代の行動に関して彼らが事実に反する説明をしたのかと、矢野と直子自身に対する疑念や不信感さえ生じてこよう。

 明代は9月1日、都庁には行っておらず、弁護士にも会いに行っていなかった可能性が高い。その根拠を説明する前に、その日、朝木の自宅には誰がいたのかを確認しておく必要がある。

 当時、千葉県松戸市のアパートに住んでいた直子は、『東村山の闇』において9月1日の朝木家の動きについて次のように記載している。

「その日の朝、私は松戸のアパートから母に電話した。……弟に車で迎えにきてもらうことを話し、そして松戸に会社のある父とおち合い、3人で食事をして帰ると伝えた。」

 この記載によれば、9月1日朝、直子が明代に電話した時点では、朝木の自宅にいたのは明代と弟の2人である。弟はその後車で松戸に向かい、直子と父親と合流することになっていた。

 したがって、矢野が説明するように、明代が12時過ぎに東京都庁に向かい、矢野とともに弁護士に会いに行ったのだとすれば、その後自宅にいたのは弟1人で、弟が松戸に出発したあとは朝木の自宅には誰もいなくなることになる。

 9月1日の明代の行動に関する矢野と直子の説明によれば、そうならなければ理屈が通らない。その点に異論はないだろう。

 ところが、明代が都庁に出発したと説明する後の時間帯に、矢野と直子の説明とは矛盾する証拠と証言が出てきたのである。

(つづく)
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